秦漢帝国の支配形態
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 23:23 UTC 版)
「中国史時代区分論争」の記事における「秦漢帝国の支配形態」の解説
西嶋定生は1949年・1950年に発表した論考(西嶋旧説)で、高祖の配下集団に見られる中涓・舎人・卒・客といった言葉に着目し、これを家内奴隷的・擬制家族的な存在であるとし、高祖集団を戦闘集団ではなく生活集団であるとした。そしてこの高祖集団の有り様は当時の豪族一般に通ずるものであり、この形態こそが当時の社会経済の主な部分を担っており、漢帝国と皇帝という関係もまたこの形態を取っているとした。西嶋はこれを奴隷制が中国的な展開をしたものとみなし、漢帝国が奴隷制国家であったと論じた。 これに対して様々な方面から批判が寄せられたが、その中で最も重要なものが増淵龍夫によるものである。増淵は、西嶋の高祖集団に対する理解は正しいとする。しかしそれを即座に敷衍し、奴隷制といういわば外形からのアプローチのみで理解することが正しいことであろうか、との疑念を出し、当事者たちの内部、心的部分までに踏み込まねば真の理解は得られないとした。春秋時代以前においては集落(邑)は同一氏族が一緒になって生活する場であり、その中での成員の変動というのはほとんどなかった。しかし戦国時代以降は集落の中から外へ、外から中への移動が激しくなっていた。その中で血縁という絆を持たない者同士が新しく人間関係を築く際の絆とされた者が戦国四君などに見られる「恩を恩で返す」というような任侠精神である。この任侠精神は、当時の社会の外に存在していた遊侠などに限定されたものではなく、西嶋が言ったような家内奴隷的集団を内側から支える役割をなしたものであるとする。 またこれに加えて浜口重国により、当時の社会において豪族は生産の主たる位置を占めておらず、生産の主たる位置は圧倒的多数である自作小農民である、という指摘が行われた。これらの批判を受けて西嶋は旧説を撤回し、皇帝と小農民との関係性を主眼に置いた新たな論考(西嶋新説)を発表した。これが個別人身的支配論である。西嶋は漢の二十等爵制を分析し、この爵制の目的が、当時崩壊しつつあった旧来の民間集落の秩序を新たな爵制により補填することにより、集落の秩序形成を国家が肩代わりすることで民衆一人一人個別の人身に対して支配を及ぼそうとすることにあったとした。 西嶋新説に対して増渕は「その着眼点の非凡さには敬意を表する」としたものの、西嶋新説の皇帝・国家側から一方的に民衆に対して支配力を及ぼす形は、結局のところ西嶋が否定した東洋的専制主義・アジア的停滞論と変わる所がないのではないか、という指摘を行い、西嶋の論を「動きの取れない構造論」と批判した。そして、西嶋が「個別人身的支配の外の存在」とした豪族と、その支配下にある民とが形成する共同体こそが、個別人身的支配を現実的に実現する媒介の役割をなす存在であるとした。
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