福祉団体・養護施設の設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/11 22:30 UTC 版)
「松浦カツ」の記事における「福祉団体・養護施設の設立」の解説
カツはその後も社会情勢の悪化につれ、北海道内外の子供を引き取り続けたことで、次第に経済的に無理が生じ始めた。道北地方に位置する美深町は11月には根雪になり、5月になっても雪が融けなかった。ましてや戦後間もない物資不足の時代であり、10人以上の子供たちの食事が毎日カボチャとジャガイモばかりという有様だった。政府からの助成金もあったが、1日わずか48円であった。当時の保健所の野犬収容の餌代が1日50円であり、人間の助成金がそれ未満だったのである。 カツは保護施設適用を目指し、旭川市の社会運動家である佐野文子らと協力の上、戦災孤児救済団体として1948年(昭和23年)に財団法人 北海道婦人共立愛子会を発足させた(1959年に社会福祉法人に変更)。新たな事業を起こすことは男性でも容易ではなく、まして終戦直後の大混乱の最中ではなおのことであった。理事長は佐野文子であり、カツは北海道富良野町(後の富良野市)の社会事業家である名取マサらとともに常務理事を務めた。 またカツは孤児たちの世話の傍ら、空いた時間には近隣の市街で募金を募った。孤児院の寄付要求お断りとして追い返されることもあったが、それでも以前からの功績と人徳、カツの活動を知る人々の応援により、募金は4万円を超えた。その募金をもとに1949年(昭和24年)、新たな寮として社会福祉法人 美深育成園が誕生した。その後もカツは募金を続け、2年後には同学園の定員を40名から60名へ増員した。カツは理事長として、年齢にあった規則正しい保育指導を実施し、寮の設備に力を注ぎ続けた。 その一方、松浦家では主婦として家事や育児もこなした。孤児のみならず、自分の子供たちも決して疎かにはしなかった。カツは夫に対しても代議士の妻として健康管理に心を配り、手作りの青汁を毎日飲ませるなど良い母、良い妻であり続けた。 1968年(昭和43年)には社会福祉功労で藍綬褒章を受章、1975年(昭和50年)には勲四等瑞宝章を受章した。 1987年、カツは85歳で没した。その後の平成期においても、美深育成園は道北における数少ない養護施設として2歳から18歳まで約60名の子供たちが生活している。カツの功績を称えるべく、施設の中庭にはカツの銅像が建てられている。
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