福祉国家の危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 08:57 UTC 版)
1973年と1979年のオイルショックを引き金に高度成長が終焉すると、それまでの福祉政策の拡充の原資となっていた税収が落ち込み、1981年に経済協力開発機構(OECD)が『福祉国家の危機』と題する報告書を公開するなど、その行き詰まりが喧伝されるようになった。また、グローバル化の進展による資本を海外への逃避から繋ぎ止めるため、先進各国は、社会保障を最小限に切り詰める「最底辺への競争」に追い立てられるとされた。また、脱工業化は、均質的なブルーカラー労働者を中心とした製造業から、多種多様なホワイトカラーを中心とするサービス産業へ産業構造が推移することによって、労働運動の弱体化を招き、福祉政策の後退に繋がるとされた。 1979年5月、イギリスではマーガレット・サッチャーが首相となり、ケインズ型福祉国家の抜本的改革に着手した(サッチャリズム)。アメリカでは1980年に大統領となったロナルド・レーガンは、「ケインズ主義福祉国家」の解体に着手した(レーガノミクス)。「小さな政府」をスローガンに、規制緩和の徹底、減税、予算削減、労働組合への攻撃など、新自由主義的な政策を大規模に行っていった。日本では小泉純一郎政権が、米英に20年遅れる形で「ケインズ型福祉企業モデル」の打破に取り組んだ。 日本を例に挙げると、以下のような福祉政策の見直しが実施された。 老人保健法の制定による老人医療費無料化の廃止(1982年) 健康保険法の改正によって被保険者本人の医療費に10%の自己負担を導入(1984年) 基礎年金制度の導入によって国庫負担を基礎年金部分に限定(1986年) 老齢厚生年金の支給開始年齢を60歳から65歳に繰り下げ(1994年)
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