県外送電反対運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 15:54 UTC 版)
宮崎県への参入を図る各社の前に立ちはだかったのが「県外送電反対運動」であった。相次ぐ各社の水利権申請を見て、1918年12月に県営電気事業を起業して各社から電力料金を徴収すべきという意見が宮崎県会にて起こったのが発端である。 県営電気事業の議論があった最中の1919年11月、県内消費の条件付きで大淀川の水利権を取得していた電気化学工業が、事業環境の変化などの理由で宮崎工場新設を撤回して既存の大牟田工場(福岡県)へと送電するという変更を逓信省へ申請した。この方針変更は県会にて詐欺ではないかという批判を招き、これを機として県営事業の議論は県外へ送電する業者には水利権を許可しないよう求める、いわゆる「県外送電反対運動」へと転化する。そしてこの動きは九州送電設立が決定すると勢いを増して県会外にも拡大していった。 九州送電設立が新聞報道された後の1921年5月10日、宮崎町内のえびす講で、鉦・太鼓を打ち鳴らして県外送電反対が宣伝され、「県民覚醒の時機来る」というビラが巻かれる事件が起こる。翌11日には町役場で協議会が開かれ、12日には県政財界の有力者(衆議院議員長峰与一や県会議長・県会議員・宮崎町長・宮崎町議会議員、日向水力電気社長柴岡晋、地元銀行頭取など)が町役場に集合して「県外送電反対同盟」として県外送電絶対反対を決議し、県知事へその旨を打電する事態となった。その後運動は全県に伝播し、5月22日には正式に「宮崎県外送電反対同盟会」(会長に県会議長、副会長に県会副議長と宮崎町長)が発足。6月1日には同盟会により県外送電反対の県民大会が開かれるに至った。 こうして大規模化した県外送電反対運動であったが、宮崎県当局の態度を動かすには至らず、次第に反対運動から条件闘争と化していった。その結果運動は徐々に衰退し、1923年(大正12年)の関東大震災を機に終息。宮崎県は翌1924年(大正13年)10月31日、九州送電創立発起委員会との間に県への寄付金納付や県内需要への優先供給を定めた協定を結び、この問題を決着させた。
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