九州送電による開発
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大分県での水力開発を進める最中の1910年代後半、有力な未開発地点として業界の注目を集めていた宮崎県への参入を図った。特に県北部を流れ各社の水利権出願が相次いでいた五ヶ瀬川を狙い、1917年に水利権を申請した。五ヶ瀬川の水利権獲得競争には、前述のように競合関係にあった九州電灯鉄道(後の東邦電力)も後から参入する。このため九州水力電気では麻生太吉が時の逓信大臣野田卯太郎に働きかけ、水利権申請者の合同という意向で合意した。一方で九州電灯鉄道側が宮崎県側に働きかけたことから一旦は九州電灯鉄道へ水利権を許可する方向へ流れたが、九州水力電気側の巻き返しで共同開発会社の新設が決まった。 こうして発足したのが九州送電で、宮崎県内の県外送電反対運動のため設立が遅れたが、1925年(大正14年)5月9日会社設立に至った。同社は初め東邦電力・九州水力電気・電気化学工業(現デンカ)・住友財閥の4者の平等出資であったが、その後電気化学工業が撤退して九州水力電気へと持ち株を売却したため、九州水力電気は九州送電の過半数の株式を握ってその主導権を掌握した。 九州送電は五ヶ瀬川と住友財閥が水利権を持つ耳川の開発を順次進め、1929年に高千穂発電所 (12,800kW)、1930年に田代発電所 (8,000kW)、1931年に山須原発電所 (13,000kW)、1932年に三ヶ所発電所 (1,320kW)・回淵発電所 (1,050kW)、1938年に塚原発電所 (50,000kW) をそれぞれ建設。あわせて宮崎県から大分県を経て福岡県へと至る約120キロメートルの長距離送電線を整備し、九州水力電気の女子畑中央開閉所と鯰田中央開閉所(福岡県飯塚市)に連絡した。 九州送電から九州水力電気への電力供給は1929年5月1日より開始。1930年時点では1万7,000kWを受電し、その後同年8月認可で1万9,500kWへ、1931年10月認可で3万2,000kWへとそれぞれ増加した。その後1937年末時点では3万kWの受電となっている。さらに1938年8月登尾開閉所(宮崎県西臼杵郡)での受電(最大1万kW)を開始し、同年11月には上津役変電所(福岡県八幡市)での受電(最大4万kW)も開始した。 なお東邦電力も九州送電と最大1万kWの受給契約を結び、九州送電から電力供給を受けることとなった。しかし九州送電が送電する電力の周波数は50ヘルツであり、東邦電力側の60ヘルツと異なっており直接受電できないため、九州水力電気の発電所のうち周波数60ヘルツにて発電が可能な女子畑発電所・黒淵発電所からの電力に振り替えて東邦電力久留米変電所へ送電するという方法を採った。久留米変電所への送電は1929年12月に開始されている。また九州送電から離脱した電気化学工業が宮崎県南部の大淀川を開発し、送電会社として九州電力を立ち上げたため、1931年4月に九州水力電気・東邦電力で同社からそれぞれ1万kWずつ受電するという契約も結んだ。
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