九州転戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 01:37 UTC 版)
天正15年(1587年)には肥後領主・佐々成政に1,000石で召し抱えられる。隈部親永の反乱(肥後国人一揆)が起きると菊池城攻めで一番槍をあげ、隈本城救援戦で先鋒となる。この戦いでは武勇を知られた阿波鳴門之介(後に尼子十勇士に挙げられる)と戦功を競ったという。成政の要請に応じた立花宗茂が反乱側に包囲されていた平山東・西付城を後詰めした際には、立花家の十時連貞、安田国継と共に働き城を救っている。一説によれば隈部親子を討ったのは勝成であるといわれる。 乱後に成政が一揆発生の責めを受けて切腹させられ、小西行長が肥後を領することになると、豊前領主・黒田孝高に仕官した。豊前国人一揆では野中鎮兼が籠もる長岩城を攻めあぐねた黒田軍が退く際に後藤基次と殿を争った。 その後、豊臣秀吉に拝謁するため海路大坂に向かう孝高の嫡男・黒田長政に随伴したが備後国鞆の浦で下船し出奔した。長政に操船の手伝いを命じられ憤慨したためとも、過去に秀吉の怒りを買っており大阪行きを嫌ったためともいわれる。 天正16年(1588年)には小西行長に1,000石で仕官する。天正17年(1589年)の天草五人衆の反乱(天正天草合戦)では、行長の弟・小西主殿介の副将を務め、当時小西家に仕官していた阿波鳴門之介と戦功を競った。志岐鎮経の本拠志岐城を加藤清正の援軍と共に攻略、さらに天草種元の本渡城を落とした。その後、行長の元を去り清正、次に立花宗茂に仕官したものの、いずれも間もなく出奔した。
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