監督・コーチ時代
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現役引退後はまずミルウォーキー・ブルワーズの傘下マイナーで打撃コーチに就任。メジャーのコーチとなって、続いてセントルイス・カージナルスに移籍。1993年には新設されたコロラド・ロッキーズの初代監督となり、1998年まで務める。この間、1995年にはチームをワイルドカードでプレイオフに導き、ナ・リーグの最優秀監督賞を受賞する。1997年までの5年間は363勝384敗で、これはメジャーで新設された球団の最初5年間の成績としては最高である。 1998年限りで解任され、翌1999年はアトランタ・ブレーブスでコーチを務め、2000年にはシカゴ・カブスの監督に就任。2002年のシーズン途中で解任され、2003年と2004年はメッツでベンチコーチ(日本のプロ野球でいうヘッドコーチに相当)を務め、2005年はシアトル・マリナーズで打撃コーチを務めた。監督としては、統率力・指導力はあったが選手をガミガミと叱るため一部の選手から不評で、特にサミー・ソーサとは対立した。 マリナーズのコーチ辞任後は、MASNの野球解説者を務めた。2009年からかつて監督を務めたロッキーズ、2011年からはアリゾナ・ダイヤモンドバックスの打撃コーチ。 2013年10月16日に古巣・エンゼルスの打撃コーチに就任し、2015年まで務めた。 2017年8月6日、癌のため死去。68歳没。
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監督・コーチ時代
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「フランク・ロビンソン」の記事における「監督・コーチ時代」の解説
前述の通り、1975年にインディアンスで選手兼任で黒人初のメジャーリーグ監督となったロビンソンだが、初年度の1975年は79勝80敗、1976年は81勝76敗と挙げ、翌1977年は26勝31敗の成績を挙げたところで同年6月19日に解任となる。解任後はかつて所属したエンゼルスでコーチに就任し、翌1978年から1980年は古巣オリオールズで永久欠番『20』を背負ってコーチに就任している。 1981年からはサンフランシスコ・ジャイアンツの監督に就任。この間の1982年に有資格1年目でアメリカ野球殿堂入りをハンク・アーロンと共に果たし、殿堂のプレートは三冠タイトルを獲得したオリオールズの帽子を被っている。1984年に106試合目になったところで解任されるが、およそ4シーズンで264勝277敗のチーム成績だった。解任後、ミルウォーキー・ブルワーズよりコーチのオファーを受けて同シーズン終了までコーチに就任している。 1985年からは古巣オリオールズのフロントに入り、コーチとして現場にも立ったが、1988年シーズン途中でオリオールズ監督に就任。このシーズンは54勝107敗の東地区最下位で開幕21連敗を喫しているどん底の状況だった。翌1989年はチームを建て直して87勝75敗と東地区2位に導き、同年アメリカンリーグ最優秀監督賞を受賞した。オリオールズの監督は1991年まで務め、その後1995年までオリオールズのフロントにてGM補佐を務めた。 オリオールズのGM補佐退任後はMLBのフロントに入り特別補佐を務めたが、この間の1998年に古巣・レッズより自身の在籍時の背番号だった『20』を永久欠番に指定されている。2002年よりモントリオール・エクスポズの監督に就任。その後2005年にチームがワシントンD.C.に移転し、ワシントン・ナショナルズと球団名を変更するが、ロビンソンはナショナルズとしての初代監督となった。ナショナルズの監督は2006年まで務め、同年に監督通算1000勝を挙げている。
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