皐月賞まで
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1996年10月5日、東京競馬場の新馬戦(芝1800メートル)にて3番人気でデビュー。同競走にはウイニングチケットの全妹スカラシップも出走していたが、スタートから先頭に立ち、逃げ切り勝ちを収めた。その後、3歳500万円以下の百日草特別で5着、続く府中3歳ステークスに出走し、スピードワールドに次ぐ単勝2番人気に推されたが小倉3歳ステークス優勝馬ゴッドスピードの7着に敗れた。 その後、3歳500万円以下条件のレースを2度使うも勝つことができず、2勝目を挙げたのは年明け6戦目の中山芝2000メートルのオープン特別・ジュニアカップだった。スタートから先頭に立ち、スローペースに落としそのままゴールし、オープン馬となった。次走の皐月賞トライアル・弥生賞で道中4番手追走ながらランニングゲイルの3着に入り、皐月賞の優先出走権を得た。太りやすい体質であったサニーブライアンは優先出走権を既に持っていながら、中2週で再び皐月賞トライアル・若葉ステークスに出走、生涯最初で最後の1番人気となった。結果は逃げることができず、シルクライトニングの4着に敗れた。この敗戦により皐月賞では人気を格段に落とすこととなる。
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皐月賞まで
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1964年7月12日、函館競馬場で山本を鞍上にデビュー。この初戦を10馬身差で圧勝すると、以後これを含め5連勝。レコード優勝3回うち2つはコースレコードという成績で3歳シーズンを終え、この年の最優秀3歳牡馬に選出された。当初の印象を覆す活躍について、山本は「馬の個性も色々あって、最初からいいのもいるけど、初めはなんだかよくわからなくて、時間が経つに連れていいところが出てくる馬がいるものです。キーストンもそういうタイプだったんですね」と語っている。 名実ともに翌年のクラシックに向けての有力候補に数えられたが、距離適性について「1600mまでの馬」との見方もあり、中長距離となるクラシックへの距離不安も囁かれていた。 3ヶ月の休養後、クラシック三冠初戦の皐月賞に備え東上、前哨戦の弥生賞を3馬身差で制し、重賞初勝利を挙げた。山本にとっても、これがデビュー10年目での重賞初勝利であった。この同日に京都競馬場で行われたきさらぎ賞で、デビュー前からクラシック候補と注目され、キーストンが2戦目に負かしていたダイコーターが優勝。鞍上は山本の兄弟子である栗田勝が務めており、競走後、栗田から山本へ「キーストンオメデトウ コチラモラクシヨウ コンドワマカス」という電報が届けられた。 次走のスプリングステークスで東上してきたダイコーターと再戦。当日はキーストンが単勝支持率65.9%という圧倒的1番人気に支持されたが、栗田の予告通り、1馬身強の差でダイコーターが勝利。キーストンは6戦目で初めての敗戦を喫した。スプリングステークスはキーストンの限界と見られた距離より200m長い1800mの競走であり、マスコミからは「距離の差で負けた」という見方が伝えられ、皐月賞に向けて評価を落とす結果となった。 20日後に迎えた皐月賞では、ダイコーターが50%超の単勝支持を受けて1番人気、キーストンは2番人気となった。レースでは20頭立ての19番枠から逃げを打ったが、最後の直線を前に失速、ダイコーターを破ったチトセオー(7番人気)の14着に終わった。前走から14kg減という馬体の細化が大敗の要因とされている。 競走後、馬主の伊藤が調教師の松田と、山本の師匠・武田文吾に騎手交代の是非を問うた。しかし松田は「キーストンには山本が一番合っている」と伊藤を説得し、武田も「山本に乗せてやって下さい」と頼んだことから、キーストンの鞍上は山本のまま据え置かれた。山本はこの数年前まで武田厩舎の所属であったが、騎乗機会に恵まれないことに不満を抱いて松田厩舎へ移籍した経緯があり、後にこの話を聞いた際に「松田先生に感謝すると同時に、武田さんには本当に厩舎を飛び出したことを申し訳なく思いました」と述懐している。
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