白酒の人気
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/19 14:44 UTC 版)
豊島屋の名をさらに高めたのは、毎年の桃の節句前に売り出す白酒であった。桃の節句に白酒を飲んで邪気を祓うようになったのは中世末のことであるが、白酒が庶民の生活にも浸透したのは江戸時代になってからである。白酒の浸透は、桃の節句の雛祭りが豪華になっていくのと比例していて、雛祭りに欠かせないものとなっていった。 文化年間に成立した『諸国風俗問伏答』によると「雛祭りには白酒」と答える藩が多かったという。その頃の江戸では、雛祭りが近づくと白酒売りが「山川白酒」と書いた桶に赤い布をかけ、その桶を天秤棒で担いで売り歩く姿が見られた。 江戸では宮崎町の矢野屋や芝の四方屋の白酒も名高かったが、一番人気があったのは豊島屋といわれる。豊島屋は江戸での白酒の元祖として知られ、「山なれば富士、白酒なれば豊島屋」と詠われたほど名高かった。 その起源としては、次のような話が伝わっている。豊島屋の当主十右衛門(何代目かは不明とされる)が見たある夜の夢に紙の雛が現れ、白酒の製法を口伝した。夢告に従って白酒を造ってみたところ、極めて美味なものが出来上がったという。十右衛門の夢枕に現れた紙の雛は、浅草寺の境内に祀られていた淡島明神が変じた姿といい、出来上がった白酒を「江戸の草分」として売り出して江戸中に評判になったと伝わる。 白酒は桃の節句前の2月25日に売り出された。売り出しの直前にはおひろめの馬車が毎年江戸市中に繰り出し、各所で売り出しの口上を読み上げた。口上の内容は、おおよそ次のようなものであった。 昔徳川入国のその以前より草分と、人も知ったる豊島屋は江戸名所図会そのほかの、古き文にもあるごとく、(中略)即ちこれが自慢の白酒、下戸の殿方、御婦人やお子様は申すにおよばず、たとえ上戸の殿方でも、ちょっと一杯めすときは、目元ほんのり桜色、どこか心の春めきて、憂さを忘れる弥生堂、雛の節句を当て込みに、今年も売り出し致しますれば、えいとうえいとうお求めをひとえに願い奉ります。 売り出しの当日には、江戸のあちこちから白酒を求める人が大挙して押し寄せた。長谷川雪旦が挿絵を手がけた『江戸名所図会』の「鎌倉町豊島屋酒店白酒を商ふ図」は、当時の様子を詳しく描写している。当日は店の前に竹矢来をめぐらせて「酒醤油相休申候」の看板を掲げ、その日は白酒のみを販売した。あらかじめ客には切手を買わせ、左側の扉を入口、右側を出口とし、一方通行に並ばせた。入口上に設けた櫓には鳶と医者が待機していて、もし体調を崩した者が出た場合には鳶がとび口を用いて櫓上に引き上げ、医者が手当てをして帰宅させたという。 白酒は発売初日の昼頃には売り切れ、1400樽(560石)が空となり、売り上げは数千両に上ったといわれる。入手が容易ではなく、毎年売り始めてからわずか半日で売り切れになる始末だったので、男女の関係になぞらえて「君はただかまくら河岸の白酒か もう切れたとはつれなかりけり」という狂歌が詠まれるほどであった。 1813年(文化10年)には、売り出し日に事故が発生した。この年は白酒の売り出し前に三河町の湯屋からのもらい火で豊島屋が半焼したため、売り出し日を変更して2月19日の半日のみとした。売り出しの時間が普段よりも短かったので、通常よりも多くの人々が白酒を買い求めに集まり、即死者1人、怪我6人という騒動に発展した。この惨状を目の当たりにした町役人が販売の中止を言い渡したものの、人々はそれを聞き入れなかったため、やむなく白酒を再度売り出すこととなった。この日は半日どころか、夜半まで騒動が続いたという。 白酒の人気について、小泉武夫は前出『江戸名所図会』の「鎌倉町豊島屋酒店白酒を商ふ図」で白酒を買いに訪れている客のほとんどが男性であることに着目した。小泉は女性へのプレゼントを買いに来ているものと推定し、「日本酒は酔うための酒、辛口の、男のための酒。一方、白酒は甘い、女性向けの酒です。(中略)確かな技術力がないと、いいものができないのは同じです」と評した。「その白酒を「山なれば富士、白酒なれば豊島屋」と言われるまでにしたのですから、まさに江戸名物です」と江戸文化への貢献を称賛している。
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