熊本・福岡対抗試合での活躍
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「小谷澄之」の記事における「熊本・福岡対抗試合での活躍」の解説
1927年3月に東京高等師範学校を卒業すると、熊本県の旧制第五高等学校(現・熊本大学)に助教授として着任する傍ら、旧制熊本医大予科(現・熊本大学医学部)も兼任で柔道の指導に当たった。小谷の回顧録に拠れば、熊本時代は寝技の練習ばかりで、大柄な者を相手にして寝技をやっていると大抵2,30分で腕がカチカチに硬くなり、ここからが本当の練習だと戒めて一層汗を流したという。汗が出ている時はまだ調子が良い内で、2時間以上も続けていると汗が出なくなる代わりに口の周りに塩を吹き、この時が練習を終えるタイミングだったという。一方、大日本武徳会熊本支部や中学校に出稽古に赴くと、乱取で小谷が小外刈や払腰、体落、背負投等の得意とする技を掛ければ、必ず相手が転んでいる程に圧倒的な強さを誇った。 同年11月に開催された熊本県と福岡県との対抗試合(両軍20名ずつの勝ち抜き試合)に講道館5段となったばかりの小谷は熊本方で出場する事が決まると、小谷はここでいきなり大将の重責を任される事となり、熊本にとっては第1回大会・第2回大会で熊本の大将を務めた宇土虎雄5段を副将に据えて絶対必勝の体制で臨む事となった。試合は前半で福岡が有利に進めたものの、熊本の牛島辰熊4段が4人を抜いて挽回し、後半では再び福岡が寄り戻して福岡側に3人を残し小谷に出番が回ってきた。 小谷はまず福岡方三将で先の明治神宮大会の雪辱も程々に強(したた)かに引き分けを狙う須藤金作5段と相見えた。体重70kg程度の小谷は30kg以上もの体重差を跳ね除けて須藤に一本背負投を2発見舞うが、いずれも勢いがあり過ぎたため須藤の体(たい)は一回転してしまい畳に足で着地してポイントにはならず。それでも試合時間24分、最後は背負投に仕留めた。続いて、同じく体重100kg以上の副将・森崎一郎5段との熱戦を、今度は試合時間18分で払腰に降して試合の形勢を5分に戻し熊本陣営を狂喜させた。大将決戦となった西文雄5段との試合は、両者攻防の末に試合時間30分のうち20分以上が過ぎた頃、主審の永岡秀一の「暫くで引き分け」の掛け声に焦りを覆えた小谷が場外間際で足払を仕掛けると、西は名人芸とも言える燕返に応じこれが決まって福岡側に軍配が上がった。 「(3人合わせて)1時間近く試合をしていたと思うが、まだまだ試合のできる状態で負けたのは残念であった」「腕等も硬くったわけではなく、自分の不注意というか、精神的な面で欠けていたから負けた」と小谷。1万5千人の観衆や臨席していた嘉納治五郎の前で熊本の逆転優勝を演出する事は出来なかったが、大会での大活躍と柔道史上に残る西との名試合で観戦した人達に強烈な印象を残し、小谷は柔道界において一躍その名を知られる所となった。西も後に、試合を終始優位に進めた小谷に対して「小谷さんこそ、当代並ぶ者の無き名人」「試合内容は全く私の負けだった」と賛辞を送っている。なお、熊本県・福岡県対抗大会は両県民が互いにエスカレートし過ぎて険悪な空気が漂い、最後には両県知事が仲裁に乗り出して、この第3回大会を以て開催中止となっている。
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