演芸王国の復活(昭和34年 - )
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「吉本興業ホールディングス」の記事における「演芸王国の復活(昭和34年 - )」の解説
他方、映画館経営を主軸としてきた大阪の吉本興業は、昭和30年代に入ると、テレビの隆盛と映画の衰退を見据えて演芸部門を復活させることになった。落語や漫才の主力芸人は戦後いち早く演芸を再開した松竹系に取られていたため、コメディを中心にすることにし、それをテレビで中継させて客を呼ぶ作戦に出た。いわばテレビ時代のビジネスモデルを目指したわけである。そして1959年3月1日、手持ちの映画館を演芸場に改装してうめだ花月として開場、演芸再開に乗り出した。演目は花菱アチャコ主演の吉本ヴァラエティ「迷月赤城山」であり、うめだ花月開場と同時にテレビ放送を開始した毎日放送と提携し、同社に舞台中継させた。当初は所属芸人がおらず、佐々十郎、茶川一郎、大村崑、芦屋小雁といった東宝系のコメディアンや、中山千夏、雷門五郎といった既存のスターのほか、千日劇場の芸人をレンタルしたり東京からの客演で凌いだ。その後、吉本興業は、直営の映画館を演芸場に改装するかたちで、1962年(昭和37年)には京都花月を、翌1963年にはなんば花月を開場。吉本ヴァラエティは、1962年には吉本新喜劇と名前を変え、白木みのる、平参平、ルーキー新一、花紀京、岡八郎、原哲男、桑原和男、財津一郎らスターを続々と生み出していった。 昭和40年代には、落語や漫才でも吉本所属の若手芸人が育ち始め、メディアと連動する形で若者の人気を得ていった。まず若手落語家の笑福亭仁鶴がABCラジオの深夜番組で人気を得、続く毎日放送の番組「歌え!MBSヤングタウン」(ラジオ)「ヤングおー!おー!」(テレビ)で、同じ吉本所属の若手落語家・桂三枝(現・6代桂文枝)が人気者となった。さらにこのころより、横山やすし・西川きよし、コメディNo.1ら吉本所属の若手漫才師も、「ヒットでヒット バチョンといこう!」(ラジオ大阪)「爆笑寄席」(関西テレビ)といった番組の出演により、若者の圧倒的支持を受けるようになっていった。こうした売れっ子芸人でも花月劇場チェーンには欠かさず出演したため、花月劇場の観客動員にも一役買った。こうしたメディアミックスを多用した手法で、所属芸人とともに吉本自体も急成長していったのである。一方で特筆すべきは、高山正行を看板スターとした「王将太鼓」という日本芸能界初の和太鼓集団を大阪の新しい名物として売り出しに全力を注いでいたことである。 また、あまり知られていないが1972年にヒットした「宗右衛門町ブルース」(平和勝次とダークホース)を発表したのがうめだ花月であった(当時はコミックバンドの歌謡曲や演歌が流行した)。 このように吉本興業は落語・漫才・コメディの分野で若い人気芸人を次々と輩出していった一方で、ライバルの松竹系の松竹芸能は老齢の重鎮クラスの芸人が多く、世代交代が進まなかったこともあり、昭和50年代に入ると、上方演芸界の主導権は再び松竹系から吉本興業へ移っていった。特に1980年の漫才ブームで、ザ・ぼんち、島田紳助・松本竜介、明石家さんまら吉本興業から全国区の若手人気芸人が続々と出た一方、松竹芸能は春やすこ・けいこを除くと全般的にブームに乗り遅れたことで、それは決定的になったと言える。以後吉本興業が上方の演芸界を支配する構図が、今日に至るまで続いている。
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