源範頼の九州平定
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「九州平定 (日本史)」の記事における「源範頼の九州平定」の解説
詳細は「源範頼#九州征伐」を参照 治承・寿永の乱のさなかの寿永3年(1184年)8月、源範頼は兄の源頼朝より九州平定の命を受け、範頼軍に配属された北条義時、足利義兼、千葉常胤、三浦義澄、小山朝光、仁田忠常、比企能員、和田義盛、土佐坊昌俊、天野遠景などの武将たちは出陣前日、頼朝より馬を賜った。この遠征の目的は、西国とくに九州内の親平氏勢力を討ち、平宗盛・平知盛らの平氏軍を瀬戸内海方面に封鎖させることであった。途中、範頼は兵糧および兵船の調達に苦しんだが、元暦2年(1185年)1月、豊後国の武士緒方惟栄の助力を得て調達に成功し、鎌倉への帰還を願う和田義盛を説得して周防国から九州への渡海を実現させた。2月には、平氏の家人である原田種直らを葦屋浦の戦いで打ち破り、長門国彦島(山口県下関市)に海上拠点を築いていた平氏の背後を遮断することに成功した。これにより、平氏の軍事力は大きく後退し、知盛は長門から動くことができず、讃岐国屋島の戦いに参戦できなかった。また、これによって 壇ノ浦が治承・寿永の戦いにおける源平両勢力の決戦の場となり、四国・九州の諸勢力が範頼・義経兄弟に協力的であった元暦2年3月の壇ノ浦の戦いでは源氏軍が戦いを優位に進め、ついに平氏は滅亡した。範頼の活動は日本史上初の東国政権の成立に大きく寄与したのである。 元暦2年5月の段階では、追討使範頼・義経兄弟は、兄源頼朝を主とする東国政権より、範頼は九州、義経は四国を管領するよう定められていた。このような軍事支配のための地域権力のブロック化は、木曾義仲の支配した北陸道をめぐる頼朝・義仲の抗争にまでさかのぼるが、ことに九州においてはブロック化の影響は後世にまでおよび、文治元年(1185年)12月、天野遠景が鎮西奉行に任命され、九州地方在住の御家人の統括にあたることが求められている。このようなスタイルは、鎌倉幕府の鎮西探題、室町幕府の九州探題へと引き継がれることとなる。遠景はその後に鎌倉へ戻され、少弐氏の祖となる武藤資頼が三前(筑前、豊前、肥前)と二島(壱岐、対馬)、大友能直は三後(筑後、豊後、肥後)、島津忠久が奥三カ国(薩摩、大隅、日向)の守護に補任され土着した。
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