満州国・蒙古聯合自治政府
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「内モンゴル独立運動」の記事における「満州国・蒙古聯合自治政府」の解説
1932年に関東軍が清朝皇帝であった溥儀を執政とした満州国を建国した。これにより内モンゴル東部は満州国となった。満洲国では清王朝以来続く満洲・モンゴルの友好血縁関係からモンゴル人は積極的に満州国皇帝に仕えた。1935年3月、ソビエトは内モンゴル東部(満州国内)に権益を持っていた北満鉄道を満州国に売却する。内モンゴルの中部ではチャハルのデムチュクドンロブ(徳王)やユンデン・ワンチュク(雲王)などの王公によって自治要求運動がなされるようになり、1936年には自治を求める内モンゴル軍(ru)と中華民国軍とが全面衝突した(綏遠事件)。1939年、デムチュクドンロブは日本の支援を受けて蒙古聯合自治政府を樹立し内モンゴルにモンゴル人による自治政府が誕生した。ただし、総人口525万4833人のうち漢民族が9割の501万9987人に対してモンゴル人は15万4203人だった。満州国とともに蒙古聯合自治政府はそれぞれ独自の行政機関・軍事組織・通貨をもつなど中国本土とは完全に分離した政治経済体制であった。 1941年4月13日、日ソ中立条約がソビエト連邦と日本の間で締結され、満州国(内モンゴル東部)とモンゴル人民共和国(外モンゴル)の領土保全と相互不可侵を約束した共同声明が出された。ところが、1945年2月11日にソビエト連邦・アメリカ合衆国・大英帝国はヤルタ会談を開き、満州を中華民国のものとし、北満鉄道・南満州鉄道をソ連・中華民国共同のものとすることを取決め、外モンゴルのみを独立させ、内モンゴルを中華民国の影響下とした上で現状維持とすることをモンゴル人・満州人の意志とは関係なく決定した。 1945年8月9日に突如としてソ連と外モンゴルの連合軍が満州国と内モンゴルに侵略してきたことによって満州国・蒙古自治邦政府(1941年に蒙古聯合自治政府から改称)は崩壊した(ソビエト参戦)。日本の根本博中将揮下の駐蒙軍は約4万の在留邦人が引き揚げるまで張家口でソ連軍の進撃を食い止めた。ソ連軍の1個師団と3個機械化旅団、モンゴル人民軍の4個師団及び1個機械化旅団は内モンゴルに侵攻し、内モンゴル東部からチャハルや熱河省といった内モンゴル西部 まで進駐した。旧蒙古自治邦政府では内モンゴル独立宣言をした内モンゴル人民共和国、旧満州国興安総省では東モンゴル自治政府やホロンバイル自治省政府などが成立して外モンゴルへの内モンゴルの併合を求める運動が勃発した。ソ連とモンゴルは当初汎モンゴル主義を煽って内外モンゴルの統一を掲げてたが、中ソ友好同盟条約で中華民国に外モンゴル独立を認めさせる代わりに内外モンゴル統一の要求を取り下げて撤退することになった。
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