大阪府立清水谷高等学校
(清水谷高等女学校 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/04 07:09 UTC 版)
大阪府立清水谷高等学校(おおさかふりつ しみずだにこうとうがっこう)は、大阪府大阪市天王寺区にある公立高等学校。
注釈
- ^ この場所では6年後の1906年、大阪府立島之内高等女学校(現大阪府立夕陽丘高等学校)も開校している。
- ^ 1949年大阪市立高津中学校に改称、1952年現大阪市立高津中学校の開校に伴い大阪市立夕陽丘中学校に改称。
出典
- 1 大阪府立清水谷高等学校とは
- 2 大阪府立清水谷高等学校の概要
- 3 交通
清水谷高等女学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 23:55 UTC 版)
「大阪府立清水谷高等学校」の記事における「清水谷高等女学校」の解説
1916年には創立15周年記念として、同窓会・清友会の運営により、私立大阪技芸女学校が東区清水谷東之町で開校している。大阪技芸女学校は1921年に清友会の運営から離れている。 1924年には鉄筋コンクリート校舎への改築を実施している。従来の学校敷地の一部を玉造警察署の移転地として割くことになり、創立以来の校舎の老朽化も相まって、中層の鉄筋コンクリート校舎として改築することになった。 1929年には昭和天皇即位記念として、南河内郡恵我村(現在の松原市)に郊外農園を開設した。農園は1938年に中河内郡八尾町大字山本字東通南3丁目(現在の八尾市山本地区)に移転した。しかし山本の農園は大阪電気軌道(現在の近畿日本鉄道)から鉄道の引込線用地として譲ってほしいと要請がきた。代替地として中河内郡曙川村大字柏村(現在の八尾市柏村町)の土地が提供され、1942年に曙川村に移転した。郊外農園敷地はのちに清友幼稚園となっている。 1941年には紀元2600年記念事業および創立40周年記念事業として、同窓会・清友会により私立清友学園高等女学校(のちの大阪府立清友高等学校)が設置されている。 太平洋戦争に伴い1938年以降生徒の勤労作業がおこなわれるようになり、1944年には3年生以上の生徒が枚方造兵廠へと通年動員された。 1945年6月1日の第二次大阪大空襲では校舎や講堂・倉庫を焼失した。この空襲では、校内にいた職員1名と生徒4名が死亡するなどの人的被害も受けている。同年6月15日の第四次大阪大空襲でも校舎に焼夷弾が落下して出火しているが、このときは人的被害はなかった。
※この「清水谷高等女学校」の解説は、「大阪府立清水谷高等学校」の解説の一部です。
「清水谷高等女学校」を含む「大阪府立清水谷高等学校」の記事については、「大阪府立清水谷高等学校」の概要を参照ください。
- 清水谷高等女学校のページへのリンク