海水注入問題
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「福島第一原子力発電所事故」の記事における「海水注入問題」の解説
米紙『ウォール・ストリート・ジャーナル』電子版は2011年3月19日に、事故の拡大は、東京電力が廃炉につながることを懸念したため原子炉への海水注入が1日近く遅れたと報じた(12日の朝に検討し13日に全ての号機で注入開始)。注水後の12日夜に、東京電力から連絡を受けた政府側の受け身の姿勢も事故対応の遅れにつながったと指摘している。事故対応に当たった複数の関係者によると、東電が海水注入をためらったのは長年の投資が無駄になることを心配したためだという。海水を注入した場合、塩分により鋼鉄の圧力容器が腐食し、原子炉が再び使える可能性はほぼなくなる。 2011年5月20日には、TBSや共同通信など国内のテレビ局ならびに新聞社において、官邸の指示により海水注入を中断したとの報道が広くなされていたが、2014年8月に吉田昌郎の証言集である吉田調書が報道各社で検証されたことを受けて、9月1日に元首相の菅直人は「首相意向で海水注入中断」「震災翌日、55分間」と報じた2011年5月21日付『読売新聞』記事を取り上げ、読売に対して謝罪を要求。9月3日には「(読売は)相当びびっている」などとTwitterでつぶやいた。 実際には、現場を指揮した福島第一原発所長吉田昌郎の判断により海水注入は中断することなく行われており、2011年5月27日、『ウォール・ストリート・ジャーナル』もこの事実を報じた。ただし、事後検証により注水ルートの変更される3月23日まで原子炉に届いた水は「ほぼゼロ」であり、復水器に向かう配管に横抜けていたことが明らかになっている。さらに、注水を継続していた局面は3月12日午後7時過ぎのことだが、1号機のメルトダウンはこの22時間前から始まっており、消防車による注水が始まった時点では、核燃料はすべて溶け落ち、原子炉の中には核燃料はほとんど残っていなかったと、推測されている。 冷却の淡水が無くなった時刻は12日の午後2時であるが、事故調査員会の参考人招致で東京電力の清水社長が「淡水が無くなる時間はかなり以前から判っていた」「私が海水注入の決断したのは、3月12日の正午です。」「現場の状況が厳しかった為、海水注入は3月12日の夜(午後7時)になった」と発言した。またその後、海水注入の一時的な中断の指示は、原子炉の冷却が一番大切なことは承知しているが、菅元総理が再臨界を心配していることを、武黒一郎フェロー(東京電力所属・副社長待遇)からの電話で知り、後で菅元総理に了承を得るとして、清水社長自らが決断して海水注入の中断を了承したと発言した。 2012年7月5日に発表された国会事故調の報告書には「菅総理や官邸内からの指示ではなく、武黒フェローが、リスクについて検討中であった官邸との関係をおもんばかり、『最高責任者である総理の御理解を得て進めるということは重要だ』と考えて、独断で指示をしたものである」「菅総理が淡水から海水に切り替えると『再臨界』の恐れがあるのではないかとの疑問を抱いていたため、班目委員長が中心となってその解消に腐心していた。菅総理は、既に海水注入が始まっていたことを知らなかったために時間があると思って慎重に確認したものと考えられるが、技術的には無駄な議論であった」と海水注入の経緯が記述されている。
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