浅野財閥で働く
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卒業後、東洋汽船のサンフランシスコ支店で下級社員として働いた。若い頃の放蕩は実に痛快の極みで、父親(浅野総一郎)も呆れ果てた程だったが、総一郎は一計を案じて、毎朝五時に財閥の会議を開き、良三が欠席すると雷を落とした。良三は早起きするために仕方なく早寝するようになり、深酒や紅夢から遠ざかって社務に専念するようになった。すると、昔の放蕩を知る人は隔世の感を抱いたという。1918年(大正7年)に浅野良三は米国のグレース商会と共同で浅野物産を資本金百万円で設立したが、七百万円の損失を出して、浅野総一郎に大目玉を食らった。その時に橋本梅太郎が浅野物産を引き受けて経営を改善した。同年の末頃に日本鋼管が浅野製鉄所に納入したインゴットケース(鋼塊)の品質が悪くて、数回の使用で亀裂ができて使用できなくなったので、日本鋼管社長白石元治郎と浅野製鉄所社長浅野総一郎が、代金四百万円を払え払わぬで大喧嘩になった。浅野製鉄所の副社長だった浅野良三がその交渉に当ったのだが義兄白石元治郎と父浅野総一郎の板挟みになって苦しんだ。最後に渋沢栄一と中村是公が仲裁してなんとか治まった。 浅野総一郎は、1925年(大正14年)に、東洋汽船の北米・南米定期航路の営業権と、定期航路の船舶八隻および政府委託船一隻を日本郵船に売却して代金として日本郵船株12万5千株を受け取ったが、東洋汽船はその後も長年経営難に喘いでいた。そこで1933年(昭和8年)に、浅野良三はまず東洋証券を設立して代金の日本郵船株を同社に売却して安田銀行借入金を肩代わりさせ、次に東洋海運を設立すると東洋汽船の船舶全部を同社に定期貸舟にして配当を復活させた。こうして責任を果たすと、浅野良三と白石元治郎は同社を辞任して無関係になった。浅野良三は、不況に対応して1934年(昭和9年)上期に浅野造船所の資本金を5000万円から1250万円に大幅に減資したが、鉄鋼需要が回復すると1936年(昭和11年)11月に、既に造船より製鉄が主体になっていたので、浅野造船所を鶴見製鉄造船に改称し、「浅野」をなくして財閥批判をかわし、株式を公開し一般大衆資本を動員して、資本金を二倍の2500万円に増資して全額払込し、1937年(昭和12年)10月には、さらに二倍の5000万円に増資した。また、既存の200トンと350トンの溶鉱炉に加えて、新たに450トンの溶鉱炉を建設し、製板工場を拡張して、鋼板製造能力では日本製鐵を凌ぐ会社にしただけでなく、溶鉱炉から鉄を造りそれを用いて船や機械を造る一貫生産能力がある日本唯一の会社に育てた。それで経営手腕や努力で浅野財閥の代表と言われた。戦時体制強化のため同じ地域の製鉄会社が合併するように政府が要請したので、義理の兄と弟である白石元治郎と浅野良三は、1940年(昭和15年)10月に日本鋼管と鶴見製鉄造船を合併して、日本鋼管を浅野財閥最大の鉄鋼会社にすると、白石元治郎が社長に浅野良三は副社長に就任した。1942年(昭和17年)6月25日に、白石元治郎が会長に浅野良三が社長に就任した。
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