浅野財閥のために米国で活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 02:00 UTC 版)
「橋本梅太郎」の記事における「浅野財閥のために米国で活動」の解説
そのせいで浅野総一郎の邸宅にしばしば招かれるようになったが、1916年(大正5年)に浅野造船所のために米国から鉄材を大量に購入する契約を任されて渡米すると、生産会社から直接購入して船積を不眠不休で監督した。以降五年間は米国に滞在して浅野財閥のために活動した。1917年(大正6年)8月に米国が鉄の輸出を禁止すると、日本は米国政府と船鉄交換交渉をおこなったが、橋本梅太郎は米国政府当局者と折衝したり、米国の新聞に投書して米国の世論を味方につけようとした。1918年(大正7年)に日米船鉄交換契約が成立すると、ピッツバーグの工場に行き鉄材の製造積出を督促し、鉄道会社と輸送交渉を行った。ところが1918年(大正7年)11月に第一次世界大戦が終わると、米国は船舶が不要になったので、交換期限の遅延を口実に日本からの船舶引取を拒否したが、橋本梅太郎は、米国の鉄材引渡しの遅延が日本の遅延の原因だと唱えて、米国船舶院の当事者を説得して引取を承諾させた。1920年(大正9年)初秋には鉄材が暴落したので、生産会社と交渉して解約に成功し損失を抑えた。この五年間は朝早くから夜遅くまで昼食も殆ど取らずに奴隷のように働いた。戦争中の1918年(大正7年)に東洋汽船の静洋丸と天洋丸はアメリカ軍をフランスのサンナゼールに輸送していたが、スペイン風邪で日本人船員十数人が死亡したうえにドイツ潜水艦も猛威を振るっていたので、米国の為に命を懸けるのは馬鹿らしいと日本人船員たちが言い出して出港を拒否しそうな雰囲気になった。これを耳にした橋本梅太郎は、日本酒の酒樽やビールを振る舞って船員たちの意見を聞いてから、酒樽に飛び乗って、アメリカを助ける事は正義人道の為であり日本の義務であり日本の為だから使命を果たしてほしいと涙を流しながら演説した。すると船員たちは感激して同意し、翌朝に出港した。1920年(大正9年)には、イタリアのジェノバで開催された国際労働会議に参加し、英国船主代表団と同じホテルに宿泊し密接に意見交換して、船員の一日8時間一週間48時間労働規則制定を阻止した。
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