浅野財閥の再建
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第一次世界大戦の好景気大戦ブームの後、1920年(大正9年)に反動恐慌、1923年(大正12年)に震災恐慌、1927年(昭和2年)に金融恐慌、1930年(昭和5年)に昭和恐慌が次々に発生して日本経済は急速に悪化していったが、それに伴って浅野財閥傘下企業の経営状態もどんどん悪化していった。1930年(昭和5年)11月9日に没した浅野総一郎は莫大な借金を残した。浅野財閥本社は払込資本金の1.8倍の借金を抱えていた。そこで浅野良三、浅野泰治郎、浅野八郎、浅野義夫、白石元治郎、鈴木紋次郎、金子喜代太、穂積重威、馬杉秀、清水幸一郎(圭一郎)ら一族が一致団結し、安田財閥の支援を受けながら、満州事変以後の景気回復に助けられて、なんとか浅野財閥を再建した。具体的には、南武鉄道に五日市鉄道を合併させ、浅野セメントに日本セメントと土佐セメントを吸収合併させて、磐城炭鉱には第二磐城炭鉱を吸収合併させて、国策に従って発電設備を日本発送電に売却した後で関東水力電気と浅野カーリットと関水興業を一つにまとめて関東電気興業にした。神奈川コークスを東京瓦斯に売却し利益を得た。また、発電所が完成すると庄川水力電気の持株を日本電力に売却して利益を得た。さらに大日本鉱業の持株を住友合資会社に売却して整理し、富士製鋼を日本製鐵結成に参加させて処分し、大島製鋼所を日曹製鋼に売却し、武蔵野鉄道を整理した。経営難が続く東洋汽船に関しては、1933年に東洋証券を設立して安田銀行の借入金を肩代わりさせ、さらに東洋海運を設立して東洋汽船持船全部を定期貸船にして、復配に成功した。朝鮮鉄山を十分の一に減資して繰越損失を埋め、さらに、鉄鉱区を浅野造船所に売却した。石油精製業の内外石油は採算が合わないので開業前に事業を中止した。小倉製鋼の4万株を売却し、さらに関東水力電気の4万株も売却して、その利益を安田財閥の安田銀行と日本昼夜銀行からの借金返済に当てた。浅野造船所は減資して繰越損金を一掃した。また財閥本社である浅野同族会社を精算し解散して、臨時の代替会社として浅野興業株式会社を設立する事に、安田財閥の賛成を得る。さらに、浅野興業が室蘭埋築を買収して少し規模を拡大する事を決定した。
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