派大岡川と吉田川の川跡利用
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「横浜市中心部の廃河川」の記事における「派大岡川と吉田川の川跡利用」の解説
1965年に、飛鳥田一雄市長のもと横浜市六大事業が策定された。このうち、高速鉄道計画(横浜市営地下鉄)と高速道路網計画(首都高速道路)が、派大岡川と吉田川の川跡利用において重複することとなった。1965年の審議会では、派大岡川・吉田川の地下に高速鉄道を通し、吉田川地上部を大通り公園、派大岡川地上部を駐車場・道路拡幅用地・商業ビルとする案が出された。1968年2月16日には、東神奈川方面と山下町方面の間を派大岡川上空の高架とし、関内駅付近にジャンクションを設けて吉田川上空に狩場方面の支線を設ける都市計画決定と事業決定がなされた。根岸線と合わせて高架橋が並び都市部が分断されること、桜木町駅付近から石川町駅付近にかけて根岸線の内陸側を通るため2か所で鉄道高架を越えることから、高さのある構造となることが懸念され、伊勢佐木町や馬車道の商店街は同年2月29日に反対の陳情を行った。飛鳥田も「肩や尻の傷なら仕方ないが、これは横浜にとって“眉間の傷”になる」と反対を表明した。1968年4月に田村明が横浜市に入庁し、企画調整室が新設された。交渉の結果、建設省は首都高速の地下化の検討に入った。大通り公園の下に、一部トンネル、残りは掘割構造とし、すでに同じ空間に路線免許を取得していた地下鉄は、大通り公園に並行する国道16号の地下に変更するものであった。これには横浜市交通局が反発した。首都高速道路公団の管理官は、横羽線を地下にして横浜ベイブリッジ方面につなげるが、関内付近から阪東橋付近の路線は建設せず、横浜横須賀道路方面への通過交通は本牧付近を通る首都高速湾岸線・高速磯子線を迂回させる案を提示した。しかしこの案は、首都高速を管轄する建設省都市局の事務方から猛反発を受ける。本案で途切れさせた区間は、同省道路局所管の日本道路公団に横取りされる恐れがある、という理由があった。1969年3月4日。田村は大雪の中、首都高速を使い建設省に出向いて、尾之内由紀夫建設事務次官と直接会談した。尾之内もジャンクションを片方向とし高架を簡素化する対案を示したが、最終的に「首都高速は派大岡川の地下と中村川上の高架、地下鉄は大通り公園の地下」という横浜市の主張が採用された。折しも会談の直前の同年2月に大岡川分水路が都市計画決定し、中村川に橋脚を建てることが可能になった事情もあった。 1969年5月に横羽線を地下とする都市計画変更がなされたが、設計に当たって数々の技術的問題が生じた。派大岡川跡は深さ30mのヘドロが堆積し、近接する根岸線の運行に影響することが懸念された。大江橋と弁天橋の架け替えも計画されており、工期に調整を要した。さらに、高架の根岸線、地表面の大江橋(国道16号)や新設される桜川橋(山下長津田線)、大岡川、首都高速桜木町トンネル、地下鉄が5層で交差する構造となり、難工事が予想された。1968年に完成した桜木町ゴールデンセンターの地下に地下鉄桜木町駅の空間が用意されており、地下鉄を首都高速の上に通す必要があったが、地下鉄の2倍以上の幅員がある道路トンネルを深い位置に掘ることは技術的に困難であった。そこで、桜木町駅をより深い位置に掘り直し、首都高速の下をシールドトンネルで通すよう改めた。駅の位置の関係上勾配が制限を越えるため、大岡川の川底を2m上げ、川底と道路構造物との間を最も近いところで1mとした。大岡川以南は、当初案の派大岡川から尾上町通り(国道16号)地下に変更し、尾上町に関内駅が設けられた。川跡の区間を含む伊勢佐木長者町駅-上大岡駅間は1972年12月16日、伊勢佐木長者町駅-横浜駅間は1976年9月4日に開業。金港ジャンクション-横浜公園出入口間は1978年3月7日、横浜公園-石川町ジャンクション間は1984年2月2日に供用開始した。
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