津軽ダムへの継承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 06:19 UTC 版)
詳細は「津軽ダム」を参照 完成した目屋ダムは、完成直後に津軽平野を襲った1960年8月の洪水や1975年(昭和50年)8月の洪水において早速洪水調節機能を発揮し、流域の被害を抑制した。とはいえ完成から48年の間に目屋ダムで定めた洪水調節量を超過する洪水が実に21回も発生し、特に中国地方の河川をことごとく暴れさせた1972年(昭和47年)7月の昭和47年7月豪雨(一時毎秒900トンの放水を行った)と1997年(平成9年)5月の融雪洪水では調節量を大幅に超過する洪水が岩木川を襲い、流域に多大な被害をもたらした。また、ダム完成以降も農地の拡大は続き、それに伴い水不足も次第に顕在化。目屋ダムだけでは賄い切れず2年に一度の割合で給水制限が発生した。このうち気候変動が顕著となった2000年代以降にひどく、2007年(平成19年)と2011年(平成23年)に流域を襲った水不足は目屋ダムの貯水がほぼ枯渇し、上水道の給水制限が行われるなど特に深刻であった。 対策として新たな総合開発計画が岩木川水系で練られることになったが、この中で既存のダム機能を強化するダム再開発事業が岩木川水系では採用された。その第一弾として1945年に完成した多目的ダムの先駆けともいえる沖浦ダムの再開発事業である浅瀬石川ダム(浅瀬石川)が1971年(昭和46年)より計画された。従来の沖浦ダムを大幅に凌駕する規模の浅瀬石川ダムは1988年(昭和63年)に完成し、岩木川流域の治水と利水に資しているが完成に伴い沖浦ダムは水没した。そして目屋ダムにおいても、再開発計画が進められた。1972年、青森県は「第二目屋ダム」計画を発表。目屋ダム直下流に従来規模を上回る大ダムを建設する計画を打ち出した。この計画は浅瀬石川ダムが完成した1988年に建設省に継承され、名称を津軽ダムに変更し特定多目的ダム法に基づく特定多目的ダムとして建設事業が開始された。 目屋ダムと津軽ダムの比較堤高堤頂長堤体積総貯水容量有効貯水容量湛水面積目屋ダム58.0 m 170.0 m 118,000 m3 39,000,000 m3 33,000,000 m3 205.0 ha 津軽ダム97.2 m 342.0 m 759,000 m3 140,900,000 m3 127,200,000 m3 510.0 ha 水没戸数177戸という目屋ダムを上回る補償問題があり、中には目屋ダム建設で移転した住民が再び移転するということで反対運動は強く、2016年の完成まで実に28年の年数を費やした津軽ダムではあるが、完成に伴い目屋ダムを大幅に凌駕する規模の人造湖・津軽白神湖が誕生し(上表参照)岩木川水系の治水、利水の向上に期待が持たれている。津軽ダムは目屋ダムの治水・利水機能を維持しながら本体工事を進め、2016年に完成した。津軽ダムの完成に伴い、1960年の完成から56年にわたり津軽平野の発展を支えてきた目屋ダムは、その役割を終えて水没した。また岩木川第一発電所は、津軽ダムにより発電所取水口が水没してしまうことからダム完成に伴い廃止された。
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