治世・モンゴル本土の後継闘争と対外政策
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「ベルケ」の記事における「治世・モンゴル本土の後継闘争と対外政策」の解説
1259年、モンケが合州親征中に陣没し、次代のモンゴル帝国の皇帝(カアン)の位をめぐり弟のクビライとアリクブケとの間に後継闘争が始まった。ベルケはいちはやくクビライ、アリクブケ双方に使者を派遣し、中立の立場をとった。しかし、アリクブケの意を汲んで中央アジアへ派遣されて来たチャガタイ家のアルグは、アムダリヤ川境域を守護してジョチ・ウルスとフレグ西征軍がクビライ側へ物資の供給がされないように監視を命じられていた。ベルケは基本的にアリクブケの帝位継承を認めていたものの、実際にはクビライ、アリクブケ双方に中立的立場を守っていたようで、アリクブケ側からはクビライとの紛争中は少なからず警戒されていたようである。 一方、ジョチ・ウルスはバトゥの主導によってフレグの西方遠征にも親族を幾人か派遣していた。すなわち長兄のオルダの次男のクリを1万戸ともに派遣し、弟であるシバンの四男のバラカン、同じくボアルの次男のミンカダルの子のトカル(ノガイの従兄弟)などであった。 モンケ没後の混乱でベルケは西征軍に参加していたジョチ家王族の回収を行っている。1256年にフレグの遠征に従軍中のバラカンがフレグを呪詛したらしいという事件が起った。バラカンは捕縛されベルケのもとに送還されたが、この時の査問でバラカンは呪詛した罪を認めたため、裁定をフレグに一任して彼をフレグのもとに送り返した。このためバラカンは処刑されたが、さらにこの直後にクリとトカルまで急死した。2人の不審死は毒殺だという噂が流れたため、フレグとジョチ・ウルスとの間に深刻な対立が根付いてしまった。あるいはアイン・ジャールートの戦いの敗北の後の宴席でバラカンが急死し、これを毒殺と疑ったトカルがフレグを呪詛したためベルケのもとに送られ再度フレグによって1260年2月2日に処刑され、クリも急死したともいわれる。 そして1262年9月にベルケがトカルの従兄弟のノガイを指揮官とする3万騎をアゼルバイジャン経由で侵攻させると、3人の王族たちの家族と軍民はカフカスやホラーサーン方面からキプチャク草原へ逃走し、ネグデル(英語版)率いる一部はアフガニスタンとインドの境域地域を占領した。 この混乱期に彼はアゼルバイジャン地方の帰属を巡ってフレグ西征軍と対立し、カスピ海東南方面において盛んに軍を派遣してフレグおよびアバカの指揮する西征軍との戦闘をくり返した(ベルケ・フレグ戦争(英語版))。 マムルーク朝側の記録によれば、ベルケは一連の事件からフレグ西征軍中のジョチ家の軍民にジョチ・ウルスへの直接の帰還がかなわない場合はマムルーク朝側に一旦亡命するよう指示を出していたため、1261年に4名の百戸長がカイロに訪れたという。マムルーク朝のスルターン・バイバルスは彼らを歓待して金品や兵馬を下賜し、ベルケとの同盟を見込んで1262年初冬にクリミア半島経由でジョチ・ウルスへ使節を派遣した。こうして幾度か使節の応答が行われ、マムルーク朝はイラン方面からのモンゴルの逃亡兵たち避難先として機能するようになった。 1265年にカフカス山脈東端のデルベントに派遣したノガイが、アバカの弟のヨシムト(フレグの三男)に惨敗したことを機に、アゼルバイジャン征服を企図して親征した。しかし、グルジアの首都のティフリスで渡河するためクル川を遡っていた途上に病没する。ジョチ・ウルスの諸軍は撤退し、ベルケの柩はバトゥ・サライに運ばれ、そこで埋葬された。 彼は新サライを建設したことでも有名である。これをベルケ・サライと呼ぶ。『集史』によるとベルケには息子がいなかったと記録されているが、娘もいなかったかは述べられていない。彼の死後、モンケ・テムルが後を継いだ。
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