殷周時代の陶磁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 14:05 UTC 版)
殷(商、17世紀BC - 11世紀BC)、西周(11世紀BC - 771BC)の陶磁について概説する。陶磁史のうえで殷(商)代の特筆すべき出来事としては、人為的に施釉した陶器である灰釉陶器の出現がある。窯の中のやきものに燃料の薪の灰が降り掛かると、高火度焼成の場合は胎土中のケイ酸を溶かす作用をし、器表にガラス状の膜を生じる。これが「自然釉」と呼ばれるものである。朝鮮半島や日本のやきものは、窯内で灰が降り掛かったことによる自然釉の段階を経て施釉陶に移行しているのに対し、中国では自然釉の段階をほとんど経ずに、人為的に施釉し高火度(約1,200度以上)で長時間焼成した陶器が出現している。 前述のとおり、中国・日本・欧米では、それぞれ「磁器」の概念が異なり、中国では釉を掛けて高火度焼成されたやきものを総じて磁器(瓷器)と言っている。殷代の施釉陶についても、中国では「原始磁器」(中国語表記は「原始瓷器」)と呼称しているが、同じものを日本語では一般に「灰釉陶器」と称している。 灰釉陶器の成立は殷代中期、紀元前1500年頃のことであった。伴出する青銅器の様式から、殷代中期までさかのぼることが確実な灰釉陶器としては、河南省鄭州市銘功路の殷墓から出土した灰釉大口尊がある(「尊」はもともと青銅器の器種で、神に捧げる酒を入れる広口の容器)。この尊は、黄灰色の胎土に印文(スタンプ文)を施し、灰釉を掛けたもので、釉は黄緑色を呈している。このほか、河北省の藁城台西遺跡、江西省の呉城遺跡などから殷代の灰釉陶器が出土している。灰釉陶器の生み出された経緯は明らかでないが、新石器時代後期から華南で焼かれていた印文硬陶との関連が説かれている。印文硬陶とは、器表に印文(スタンプ文)を施して高火度で焼き締めた陶器で、印文、胎土、高火度焼成などの点に灰釉陶器とのつながりが指摘されている。前述の呉城遺跡では後世の龍窯(斜面を利用した登り窯の一種)の祖形とみなされる窯が検出されており、そこからは灰釉陶器片が出土し、印文陶器と共伴していた。殷代の遺跡から出土する陶片のうち、灰釉陶器はごく一部であり、大量に生産されたものではなかった。殷代の灰釉陶器の器形は同時代の青銅器の器形とは共通性が少なく、主な器種は壺、豆(とう、高坏)、尊などである。 殷代の陶磁としては他に印文白陶が著名であるが、遺品は稀少である。これは殷墟から出土するもので、カオリン系の白い胎土に緻密な印文を施し、高火度で硬く焼き締めたもので、器形、文様ともに同時代の青銅器を模している。フリーア美術館蔵の白陶雷文罍(はくとうらいもんらい)が著名だが、この罍のような完器として残るものは非常に少ない。 西周代に入ると、灰釉陶器の遺品は増加する。新中国成立後、殷周時代の遺跡の発掘が進み、西周代の墳墓から出土したことをもって、明確に西周の灰釉陶器として編年できる事例も増えている。華北では河南省濬県(しゅんけん)辛村遺跡(貴族墓群)、河南省龐家溝(ほうかこう)の周墓、華南では安徽省屯渓の周墓、浙江省衢州市(くしゅうし)の土墩墓(どとんぼ)、江蘇省句容市浮山果園の土墩墓などから灰釉陶器が出土している。以上のように、灰釉陶器は華北からも出土するが、出土量は華南の方が圧倒的に多く、華北の出土品と華南の出土品には器形・釉とも大きな差はない。こうしたことから、灰釉陶器は華北・華南でそれぞれに焼かれたという見方と、胎土や燃料の木材が豊富な華南で焼かれた陶器が華北に運ばれたとする見方とがある。 灰釉陶器は、続く春秋戦国時代にも作られたが、素地、釉ともに後世の磁器に匹敵する本格的な青磁が製作されるのは後漢時代の紀元2世紀を待たねばならなかった。殷周から春秋戦国時代にかけて、当時の先端技術が注がれた製品は青銅器であり、陶磁器の進歩はゆるやかなものであった。
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