殷墟の婦好墓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 04:53 UTC 版)
殷代には女性が高い地位に就くだけではなく、政治力を行使することもあった。殷墟から発掘された武丁の妻のうちの一人である婦好の墓には、貴重なヒスイや青銅器が副葬されており、彼女の富を示している。加えて、婦好墓から発見された甲骨文字の記録によれば、婦好は軍隊を率いて殷の北部の戦いに出向き、国家を征服し、祖先崇拝への務めを主導し、宮廷で政治を手助けしたことが書かれている。彼女の死ののち、婦好は後世の君主から「辛」という諡を与えられ、奉納品が捧げられた。 同じく婦好墓の甲骨文によれば、当時は女児よりも男児が好まれる傾向があったらしく、婦好の妊娠について「出産は丁の日か庚の日か。31日後の甲寅の日に、残念ながら女子を生んだ」と記されている。加えて、男性の支配者は男児を得る可能性を高めるために複数人の妻を持つことが許されていた。実際、婦好は70人近く存在する武丁の妾の一人である。武丁の第一婦人は「婦妌」という女性であり、その地位の違いは、婦妌が殷墟の王の地区の斜面に埋葬されるのに対し、婦好は公式の共同墓地の外側に埋葬されていることに示されている。
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