残虐行為と戦犯裁判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 20:38 UTC 版)
關禮雄によれば「九龍半島ではごろつき、暴徒の狼藉は日本軍の新界侵攻直後に始まっていた。彼らはイギリス軍と警察が撤退し、日本軍がまだ入ってこない真空状態に乗じ大挙して略奪・強盗を働いた。」「新界と九龍に侵攻した日本軍は強姦、略奪、殺戮を恣にし、悪行の限りを尽くした。日本軍の先鋒部隊は普通は直系部隊ではなく、その多くが朝鮮人や台湾人で軍紀は平素から乱れていた。彼らが一つの地区を攻略するごとに、最初の数日間指揮官は部下の勝手放題の所業を慣例通り黙認した。」という。日本軍に強姦された事例は筆紙に尽くしがたく、映画スター梅綺(中国語版)も被害者の一人である、という。鑽石山の某映画製作所に避難していた女優たちが馬丁に暴行された事件について、謝永光は「この馬丁とは恐らく朝鮮人にちがいなかった。当時、朝鮮も台湾も日本の植民地であった。日本は兵力不足のため、大量の朝鮮人や台湾人が戦場に駆り出されていた。香港占領期間中、多くの朝鮮人が日本の軍服を着ていたが、日本人より背が高く、日本の正規軍よりももっと凶暴だった。このとき民家に乱入して婦女暴行を働いたのは、ほとんど日本人の手先となって悪事を働いていた朝鮮人であった。当時香港住民は、日本軍に対するよりももっと激しい憎悪の念を彼らに抱いた。」と記した。 關によれば「ランタンロード(中国語版)一帯で日本軍は殺戮と略奪を恣にした。跑馬地臨時野戦病院の看護婦はほとんどが強姦された。李樹芬(中国語版)医師が院長を務めていた隣の養和医院(中国語版)は辛くも暴行から逃れた。浅水湾ホテル(中国語版)と濱海の余園(中国語版)も殺戮の巷と化した。」という。新華社によると、李美娜が収集した証言と史料によれば、1941年12月24日、日本兵が香港島の銅鑼湾にある店舗で民間人の女性を強姦し、「ブラッククリスマス」後のある夜にも一部の日本兵が養和医院に強引に進入し一部の看護師を強姦した、という。 關によれば「赤柱のワリス(中国語版)准将は中央と連絡が絶たれたまま日本軍と戦っていたが、夜になって降伏した。停戦後のこの抵抗は日本軍の怒りを買い、残虐な殺戮を引き起こした。セントステファン校(中国語版)で百名近くの負傷兵と身に寸鉄を帯びない捕虜兵士がすべて殺害され、7、8名の看護婦も凌辱されたうえ虐殺された。」という。 リネット・シルヴァー(英語版)は「政府高官は、1942年の香港侵攻の際、日本兵がイギリス人看護師たちをレイプし、殺害したのを知っていた。それなのに、オーストラリア人看護師をシンガポールからなかなか避難させなかった」と非難した。[要検証 – ノート]
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