残る大橋の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 17:11 UTC 版)
通常であれば、公団が事業主体となる一般有料道路事業は、財政投融資(郵便貯金などを財源とする資金)及び金融機関からの借金によって実施される。借金である以上は公団には毎年利息を払う義務が生じるが、公団の負担を減じるために税金を投入することで公団の利子負担を約6パーセント(この公団が負担する割合を資金コストと呼ぶ)に抑えている。今回は財政投融資金に代えて民間からの資金を導入してより公団の利子負担を減らそうというものである。具体的には、日本道路公団が発行する公団債(低利縁故債)を地元経済界が低利で引き受けるという内容で、通常の金融機関向け縁故債と比較して、表面利率で0.1パーセント、発行価格で50銭低く設定されるなど、公団にとってはより低利な資金調達を可能としている。また、それでも不足する資金については地元協力を仰ぐことになり、インターチェンジ等の用地確保に要する交渉、資金は地元が一部協力することになった。 以上の方策によって国の負担は2割低減することが見込まれ、こうした調整が実を結んで、残り2橋の建設も1986年(昭和61年)3月には政府自民党によって決定した。そして満を持して1987年(昭和62年)11月、従前に許可されていた有料道路「名港西大橋」の事業変更という形で、東海 - 金城ふ頭間が一般有料道路「伊勢湾岸道路」として事業許可され、中央大橋の下部工が1989年(平成元年)12月に発注された。ただし、この時点では名港西大橋下り線(二期線)の事業許可を受けられる目処は立っておらず、半ば見切り発車的な工事スタートとなった。 工事は6.1 kmの短い区間に3つの斜張橋が連続して建設されるという世界でも前例がない大工事となり、加えて名港中央大橋クラスの長大支間斜張橋も公団としては施工例が少ないこともあって手探り状態の設計、工事となった。なお、名港西大橋下り線(二期線)の事業許可が下りたのは1993年(平成5年)7月と非常に遅く、これが尾を引いて当初予定の1996年度開通を1年延期に至らせた。設計は軟弱地盤であることも手伝って事業化以前より橋種が猫の目のように変わり、特に中央大橋は事業許可が出る2年半前になってようやく現行の斜張橋方式に決定している。その後も設計変更や施工方法の見直しが相次いだうえに、当初は豊田 - 四日市間の自動車専用道路であった伊勢湾岸道路が、第二東名、第二名神に取り込まれたことで、道路規格を高速自動車国道並に揃える必要が生じた。このため都市高速並みの低規格で設計された名港3大橋は規格アップされることになり、結果、始終何らかの設計変更がつきまとう斜張橋となった。 施工に至っては海上高く架かる橋だけに1年を通して風が強く、夏の鋼床板上の作業は気温60度と厳しかった。中央大橋は主塔に足場を組んで溶接しながらTP+195 mまで建設したが、現場は異物が入らないように完全密閉のうえ溶接することもあって蒸し風呂状態であり、それも海上から100 m付近の高所作業である。こうした劣悪な条件下で溶接接合によるひずみや寸法誤差を抑えて施工精度を確保しなければならなかった。また、新宝ふ頭などは現場に隣接して自動車輸出基地があって、コンクリートから出る水や鋼のさび汁が新車に降りかからないように作業の都度ブルーシートで現場周辺を覆うなど気を遣う作業となった。こうした苦難の末に1998年(平成10年)3月に「名港トリトン」としてグランドオープンするに至った。
※この「残る大橋の建設」の解説は、「名港トリトン」の解説の一部です。
「残る大橋の建設」を含む「名港トリトン」の記事については、「名港トリトン」の概要を参照ください。
- 残る大橋の建設のページへのリンク