死去と墓所および記憶
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 04:06 UTC 版)
「エリザベス・キャディ・スタントン」の記事における「死去と墓所および記憶」の解説
スタントンは心不全のため1902年10月26日、ニューヨーク市の自宅で死去する。アメリカで女性が投票権を得るのはその18年後である。墓所はニューヨーク市ブロンクスのウッドローン墓地にあり、同墓地にはスタントン夫妻の記念碑がある。エリザベス・キャディ・スタントンは正式な大学教育を受けなかったものの、娘2人はマーガレット・リビングストン・スタントン・ローレンスがヴァッサー・カレッジ(1876年)とコロンビア大学(1891年)に入学、ハリオット・スタントン・ブラッチはヴァッサーで学士号(1878年)と修士号(1891年)を取得する。 その死後、女性の抱える問題に宗教と雇用優先その他を主張した思考が独り歩きし、スタントンは正統ではないと見なされたため、多くの参政権活動家は女性参政権運動の創設者としてスタントンではなく、アンソニーに注目してきた。スタントン著『女性の聖書』は生前の1895年に論争の的となり、より伝統的な宗教観を抱く参政権運動家を著者から遠ざけてしまい、女性参政権運動の指導者として認めやすいアンソニーの地位を固めた。NAWSA(英語)と協力を続けたアンソニーの名前は、運動に参加して年数の浅い若手メンバーに浸透していく。セネカフォールズ会議75周年を祝う1923年には娘のハリオット・スタントン・ブラッチをのぞくと、女権運動を推し進める上で果たした役割に敬意を表した者はいない。1977年時点でもアンソニーは運動創設者として最も注目され、スタントンには言及されていない。しかしながら時間の経過とともにスタントンは多くの注目を集めるようになる。 アメリカ合衆国議会議事堂に1921年に奉献されたスタントン胸像は彫刻家アデレード・ジョンソン Adelaide Johnson の作品で、ルクレティア・モットならびにスーザン・B・アンソニーの肖像をそれぞれ1体ずつ制作した。その後、ながく議事堂の地下倉庫で保管されたままだったものを1997年に現在の目立つ大広間に移し公開された。 セネカフォールズにあるエリザベス・キャディ・スタントン邸は1965年に国家史跡の指定を受ける。 1969年、ニューヨーク急進派フェミニスト (英語) が設立され、過去の著名なフェミニストに由来して命名された小さなセルまたは「旅団」を編成する。スタントン・アンソニー旅団を率いたのは、アン・コートとシュラミス・ファイアストーンである。 1973年には全米女性の殿堂(英語版)入りする。 1975年、ニュージャージー州テナフライにあるスタントン邸 (英語) は、国立歴史的建造物に指定される。 エリザベス・キャディ・スタントンとスーザン・B・アンソニー論文事業が1982年に始まり、両者が執筆し利用可能な資料をすべて収集し文書化する学術的取り組みとして完了している。 2008年3月、発行主スタントンとアンソニーが機関紙「The Revolution」(革命) の事務所を置いたニューヨーク市マンハッタンのパークロウ街37番地は、重要な女性に関連するまたは捧げられた場所としてマンハッタンの史跡地図 (マンハッタン自治区区長事務所作成) に掲載された。
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