死去とグループの解体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 07:42 UTC 版)
1993年3月11日、金丸信巨額脱税事件で衆議院予算委員会の臨床尋問を受けた直後、心臓病治療のため渡米。間もなく帰国したが、その後再び体調を崩し、東京医科大学病院に入院する。そして、同年11月7日、急性心肺機能不全のため同病院で死去。79歳だった。 小針の遺産相続にあたって行われた1993年所得申告は、前年の約12倍となる14億8千万円に膨れ上がり、番付でも全国7位にランクされた。これは、小針の死亡時には少なくとも100億円を超す借金があったため、遺族側が相続財産を限度に債務を返済する「限定承認」という相続の方式を選択し、株式譲渡所得31億円、土地譲渡所得9億円を「みなし所得」として申告したためであった。この結果、遺族には遺産が一銭も残らなかったという。 小針が死去すると、グループの後継者には長男の小針美雄(2008年1月3日死去)が就任した。しかし、バブル崩壊後、観光開発などが難航し、1997年には那須カントリー倶楽部を所有する日本ロイヤルクラブがゴルフ場の競売を申し立てられるなど経営危機が表面化した。この状況下で、美雄は新たにパチンコ事業に進出するなど、無理な多角化とワンマン経営が目立っていた。こうしたリゾート事業がグループ中核3社の事業に影響しかねないと判断した各社取締役会は、同年12月、取締役会の緊急動議にて美雄とその義弟で3社副社長・山田克爾の解任を決議し、小針一族をグループから放逐した。
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