死去と「国民葬」
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大隈は大正10年(1921年)9月4日から風邪気味となって静養を始めたが、腎臓炎と膀胱カタルを併発して衰弱していった。この頃から早稲田大学や憲政会など関係の深い者らにより大隈の顕彰運動が盛んとなり、「国葬」実現や公爵への陞爵、位階・勲等の陞叙を目指して、当時の高橋内閣や元老など政府関係者への工作や、大隈系新聞紙上での顕彰が展開されたが、すでに大勲位菊花章頸飾の授与が決定されていたため、元老である山縣、西園寺、松方、そして宮内大臣の一木喜徳郎も公爵陞爵は過分であると判断した。また、公爵陞爵より重大事であると見られていた国葬については協議も行われなかった。結果的に大隈への栄典は従一位への昇階と菊花章頸飾という形で決着し、大隈関係者が望んだ国葬の開催や陞爵は実現しなかった。大正11年(1922年)1月10日4時38分、大隈は早稲田の私邸で死去した。死因は腹部の癌と萎縮腎と発表された。享年85。 しかし死去当日、大隈の側近で前衆議院議員であった市島謙吉が、「世界的デモクラシーの政治家である大隈」は、「国民葬」の礼を持って送ることがふさわしいと発表した。大隈家は同日、東京市に対して日比谷公園を告別式場として貸与することを申請し、認められている。前宮内大臣の波多野敬直を委員長とした葬儀委員会が、一定の儀式が定められており、一般人の参列ができない国葬ではなく、面識のないものでも参加できる「国民葬」の演出とその成功をねらった準備活動を進めた。1月17日に私邸で神式の告別祭が執り行われたのち、日比谷公園で「国民葬」が挙行された。その名が示すように、式には約30万人の一般市民が参列し、会場だけでなく沿道にも多数の市民が並んで大隈との別れを惜しんだ。大隈・憲政会系の新聞である『報知新聞』は100万人が沿道に並んだと報じている。その後、6時50分より東京都文京区の護国寺にある大隈家墓所で埋葬式が行われ、7時30分に墓標が建てられ、埋葬された。また大阪市・札幌市・京城・北京などの各都市でも告別式が行われている。佐賀市の龍泰寺にも大隈の墓所はある。 大隈の死を報じる『東京朝日新聞』 大隈の出棺 外濠通りを日比谷へ向かう葬列 護国寺内、大隈重信の墓
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