死去と「国民葬」とは? わかりやすく解説

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死去と「国民葬」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 06:59 UTC 版)

大隈重信」の記事における「死去と「国民葬」」の解説

大隈大正10年1921年9月4日から風邪気となって静養始めたが、腎臓炎膀胱カタル併発し衰弱していった。この頃から早稲田大学憲政会など関係の深い者らにより大隈顕彰運動が盛んとなり、「国葬実現公爵への陞爵、位階・勲等陞叙目指して、当時高橋内閣元老など政府関係者への工作や、大隈新聞紙上で顕彰展開されたが、すでに大勲位菊花章頸飾授与決定されていたため、元老である山縣西園寺松方、そして宮内大臣一木喜徳郎公爵陞爵は過分であると判断したまた、公爵陞爵より重大事であると見られていた国葬については協議行われなかった。結果的に大隈への栄典従一位への昇階と菊花章頸飾という形で決着し大隈関係者望んだ国葬開催や陞爵は実現しなかった。大正11年1922年1月10日4時38分、大隈早稲田私邸死去した死因腹部の癌と萎縮腎発表された。享年85。 しかし死去当日大隈側近前衆議院議員であった市島謙吉が、「世界的デモクラシー政治家である大隈」は、「国民葬」の礼を持って送ることがふさわしいと発表した大隈家同日東京市に対して日比谷公園告別式場として貸与することを申請し認められている。前宮内大臣波多野敬直委員長とした葬儀委員会が、一定の儀式定められており、一般人参列できない国葬ではなく面識のないものでも参加できる国民葬」の演出とその成功ねらった準備活動進めた1月17日私邸神式告別祭が執り行われたのち、日比谷公園で「国民葬」が挙行された。その名が示すように、式には約30万人一般市民参列し会場だけでなく沿道にも多数市民並んで大隈との別れ惜しんだ大隈憲政会系の新聞である『報知新聞』は100万人が沿道並んだ報じている。その後6時50分より東京都文京区護国寺にある大隈家墓所埋葬式が行われ、7時30分墓標建てられ埋葬された。また大阪市札幌市京城北京などの各都市でも告別式が行われている。佐賀市龍泰寺にも大隈墓所はある。 大隈の死を報じる東京朝日新聞大隈出棺 外濠通り日比谷へ向かう葬列 護国寺内、大隈重信の墓

※この「死去と「国民葬」」の解説は、「大隈重信」の解説の一部です。
「死去と「国民葬」」を含む「大隈重信」の記事については、「大隈重信」の概要を参照ください。

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