死去とその後の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 18:10 UTC 版)
しかし、1905年11月、日本の文部省が清朝等の要請に応じ、いわゆる「清韓日本留学生取締規則」(「清国留学生取締規則」とも)を発布すると、これに悲憤慷慨した陳天華は同年12月8日に大森海岸にて入水自殺した。ロシア艦隊を日本海で全滅させた日本に比べ、祖国は満洲王朝の植民地のままであり、また自身の革命運動も挫折していたため、陳は落ち込んでおり、朝日新聞が、安全な日本で酒の勢いで大言壮語する中国人留学生を放縦卑劣と評したことを知った夜に入水自殺したという。享年31。遺書には「生きて救国を空談するより、自ら死んで、放縦卑劣の汚名を雪ぎたい」とあった。翌年、遺体は湖南に戻り、長沙の学生や各界人士の追悼を受け、岳麓山に葬られている。 陳天華の著書には『猛回頭』、『警世鐘』、『獅子吼』、『国民必読』、『最近政見之評決』、『最近之方針』、『中国革命史論』などがあり、自殺直前には遺書として『絶命書』を残した。特に前2冊は、その読みやすさや主張の明快さなどもあって、清朝の発禁や取締りにもかかわらず、革命派の宣伝書として広く一般に流布・普及している。自殺する少し前に会った孫文に宛てて書かれたといわれている『絶命書』には、革命の心構えが記されており、「責任感を持て」と「外国を頼るな」であった。後者の例には、スペインからの独立にアメリカを頼った結果、住民20万人がアメリカ軍に虐殺され、その植民地にされたフィリピンを挙げている。
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