死去と墓所
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天秀尼は、霊牌および寺伝により、正保2年(1645年)2月7日、会津加藤家改易の2年後、37歳で死去した。長命であった千姫は、娘の十三回忌に東慶寺に香典を送っている。天秀尼の墓は寺の歴代住持墓塔の中で一番大きな無縫塔(右の写真の中央、丸いもの)である。墓碑銘は當山第二十世天秀法泰大和尚。 側に「台月院殿明玉宗鑑大姉」と刻まれた宝篋印塔があり、「天秀和尚御局、正保二年九月二十三日」と刻銘がある。天秀尼の死去の約半年後である。この墓は「天秀和尚御局」と刻銘があるので天秀尼の世話をしていた人で、世話と云っても、墓は格式のある宝篋印塔で「御局」とあり、戒名が「院」ではなく「院殿」であることから、ただの付き人ではなく相当に身分の高い人、かつ尼ではない一般在家の女性であることは確かである。東慶寺の住職・井上正道は、東慶寺にかなりの功績のあった人物か、もしくは天秀尼が相当の恩義を感じていた天秀尼にとっての功労者。あるいは 常に天秀尼のそばにいて、天秀尼を教育した人物。天秀尼の心の拠り所であり、天秀尼の心の支えであったのではないかと推測している。ただし「寺にはこの人物についての文献、伝承も一切なく、ただ墓のみが残っている」という。歴代住持墓塔のエリアに在家(出家していない人)の宝篋印塔があることは極めて異例である。
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死去と墓所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 23:02 UTC 版)
天正14年(1586年)になると、正勝は病に臥せるようになり、京都で養生していた。一旦、快復して大坂に帰るが、ほどなく、5月22日(7月8日)、楼岸の邸宅で死去した。享年61。法名は福聚院殿前匠作四品良巌浄張大居士。 遺言によって、隠居領として与えられていた5,000石を豊臣家に返還したので、秀吉は正室(大匠院)のために河内日置に1,000石を与えた。家政によって亡骸は楼岸の龍雲山安住寺に葬られた。 安住寺は元々は美濃国厚見郡鏡島の古刹で、兵乱で荒廃していたために、正勝が大坂の同地に移し、出家した石川伊勢守を開山として再興したものである。同寺は慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の際に焼失し、戦後の大坂城の拡張工事のために同じ場所には再建できなかったので、家政によって四天王寺の脇に移動されて、これが国恩寺となり、正勝の墓も改葬された。しかし国恩寺も明治になって廃寺となり、墓地は天瑞寺の管理となった。これも蜂須賀家と所縁の深い寺で、徳島藩2代藩主・蜂須賀忠英の側室・天瑞院の菩提寺である。正勝の墳墓は、大正14年(1925年)に徳島県有志によって修復された。さらに戦後の昭和46年(1971年)に徳島県徳島市眉山町の万年山に移されて改葬された。 家政は阿波徳島にも江岸山福聚寺を築かせたが、これは後に改号して大雄山興源寺となった。このため正勝の墓所は現在は徳島県徳島市の万年山にあり、位牌所が下助任町の興源寺とされている。このほか家政は那賀郡大原村に吉陽山桂国寺を建て、寺領20石を与えて正勝の菩提を弔わせた。また、高野山の奥の院にも阿波徳島蜂須賀家墓所があり、歴代藩主の墓がある。出身地である愛知県あま市蜂須賀の池鈴山蓮華寺にも家政との合同墓碑が後年造られている。
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