死去と王朝の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 15:10 UTC 版)
マネトのエジプト史の記述では、第5王朝はウナスの死で終わりを迎えたという。これはウナスが後継者となる男子なくして没したためと考えられ、彼の息子と推定されるUnas-Ankhはウナスよりも前に死去したとみられる。後継者争いが生じたであろうことは、テティが即位時に名乗った名から推測できる。Seheteptawy、すなわち「彼は二国を調停/鎮圧する者」である。テティはウナスの娘と推定されるイプト1世(英語版)との婚姻関係に基づいて王位継承権を主張したという説があるが、この説については、イプト1世の称号が王の娘という意味であるか否かが確定しておらず、議論の分かれる所である。更にテティが王族との婚姻関係によって王位継承を主張したという説自体も、Munro、Dobrev、Baud(英語版)、Mertz、Pirenne、Robinといった、ファラオの座が女系王族の存在を無視して継承されることはないと考える多くのエジプト史学者たちにより否定的意見が出されている。 王朝交代についてはマネトの記述に加え、マネト発案の王朝区分に依っていない筈のトリノ王名表でも、ウナスと後継者テティとの間で明確に区切りを入れている。しかしエジプト史学者Jaromir Malekはこれについて、「トリノ王名表においてこういった区切りを入れている箇所は、全て王都や王宮の移転を示すものである」と述べている。Malekの説では、イネブ・ヘジの名で知られるエジプトの王都は、この頃もう少し南のサッカラ南部東側に新たに出来た町へ遷されており、ウナスの王宮もそちらにあったのではないかとしている。これらの都市は最終的に紀元前2000年頃、メンフィスの町に統合された。 マネトが何を論拠として第5王朝がウナスの代で終わったとしたのかは定かでないが、当時のエジプト人達は第5王朝が滅んで新王朝が樹立されたことに気づいていなかったとみられる。内政上も何らかの騒動が起こった形跡はなく、宰相のMehu(英語版)やKagemni(英語版)、Nikau-Isesi、エドフの監督者Isiなどウナスに仕えていた多数の官僚達は、テティの即位後も変わらず職務に当たっていた。古王国時代のエジプト人達が王朝の交代を考えもしなかったとすると、第5王朝と第6王朝とは実際上の差異が無い可能性も高い。
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