死去と論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/11 01:40 UTC 版)
1994年夏、突然気分が悪くなり、嘔吐なしでは食事が摂れず、体重が激減した。時間をつくって、秘密の夫アントーニオ・ディ・チェスコとともに、インドへ旅立った。病状は回復せず、密かに家族の住むフランスのリヨンの病院に入院した。同年9月15日に急逝。33歳であった。大部分の報道では、肝癌で死んだとされる。いくつかの扇情的な報道はエイズで死んだと主張したが、この風説は最終的には証拠立てられなかった。死のニュースは、1994年9月17日に報じられた。(人が突然肝癌で死ぬことは稀である。通常は数十年の飲酒の後、長期間肝硬変を患うか、B型またはC型肝炎に耐えた後に、肝癌で何ヶ月も苦しむものである。)様々な性的接触を通して肝炎になった可能性はあるが、アルコール使用障害であるとは知られていない。家族と一部の親しい同僚だけが病気を知っていた。そして夏の終わりの前に収録されたテレビ番組では、まだ健康的に微笑んでいる。葬儀は行われず、追悼記事も発表されなかった。 まだアメリカかインドで生きているという噂がすぐに広まり始めた。家族の沈黙は、噂に拍車をかけた。外国で亡くなった事も、死亡診断書のチェックを困難にした。 10回目の命日(2004年)に、突然の失踪に関する新しい噂が浮上した。ローマの裁判所が生きているのか死んでいるのか、真相を究明するため新たに開廷したというもの。2005年12月、イタリアのテレビ番組「Chi l'ha visto? 」は初めてリヨンの共同墓地の、死の正確な日を記録した公式死亡診断書を公開した。家族はインタビューにおいて、最終的にこの事実を認めた。夫アントーニオも、1995年以来のインタビューを受けた。また、ピエモンテ州(北イタリア)のアレッサンドリア県レルマの墓所にある「ポッツィ」の刻印がない墓が公開された。弟シモーネ(特に近しかった)は、2006年2月の同テレビ番組で、実は息子であり、弟ではないことを明かした。モアナの母は、数日前にこれを認めていた。彼は自伝(イタリア語)を書き、2006年に出版された。この本は、初めてモアナのパーソナリティ、家族の他のメンバーとの関係の相違(特に妹ミーマと)と、彼女の病気と死の過程を明らかにした。 2007年4月2日、夫アントーニオは、モアナは最後の数日間、彼に死を促進するよう頼んだと「Il Messaggero」紙に話した。彼は空気を彼女の静脈に入れ、空気塞栓症を引き起こす事によって彼女を安楽死させたと語った。
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