死去に関する憶測
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/27 18:40 UTC 版)
義興の死の背景には主家征服を目論む松永久秀の毒殺説の疑いがあるが、どれも後世に造られた軍記物を典拠とする風聞であり、全く事実無根である。例えば風聞の一つとして、義興が久秀の奸悪を見抜いて排除しようとしたために毒殺されたというものがある。しかし、一次史料には久秀が暗殺したという記述は全く見られない。それどころか、そうした情報を掲載する『足利季世記』や『続応仁後記』でさえも、「毒殺の風聞があった」「松永久秀が暗躍したという人々の雑説があった」と、風聞があったと記載するのみであり、久秀による犯行を断言はしていない。『足利季世記』に至っては、そうした風聞が生じたことについて「如何なる故ありしにや」と懐疑的に言及しており、二次史料・軍記物においてさえ、久秀による義興の毒殺に懐疑的な言及が少なくない。 父の長慶は義興の死で心身に異常をきたし、翌年の永禄7年(1564年)に後を追うように病没している。今谷明は、最愛の息子の死などの不幸が重なり長慶は所謂「恍惚の人」になってしまったと指摘している。 『続応仁後記』においては義興の器量は父祖に劣らず優れて天下の乱を治める人であったが、早世したことを惜しんでいる。また義興の死因に関して当時から噂があった久秀の毒殺については「雑説」、あるいは久秀が主家に劣らぬ実力を保持していた事を妬んだ者による根拠のないものとしている。
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