死去に対する反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 23:08 UTC 版)
生前に「冒険で死んではいけない。生きて戻ってくるのが絶対、何よりの前提である[要出典]」という言葉を残していたが、最期は冒険の下山中に行方不明となった。 1984年3月8日の捜索打ち切りの知らせを受けて、翌3月9日、妻・公子が明治大学で記者会見に応じた。 記者「もし生きていたら、どういうことを言いたいですか?」 公子「常に『冒険とは生きて帰ること』って偉そうに言ってましたので、ちょっとだらしがないじゃないの、って(言いたいです)」 記者「大切な人だと思えば、止める必要があったのではないですか?」 公子「どんな旅にも全部反対しました。でも『俺にはこれしかない』って言ってました。(そして、)反対しても出かけていく人でした」 行方不明後、標高4,200mの雪洞で発見された日記には、登頂アタック前の最後の日である2月6日の日付で、最後に「何が何でもマッキンリー登るぞ」と書かれていた。これについて野口健は、「何がなんでも」という言葉は素人が使う言葉であり、その言葉を変えれば「いかなる状況下においても決行せよ」という意味であると解釈している。その上で「自然を相手に、植村さんなら、そんなことするべきではないってよくわかってるはずですよね。だから、その彼がどうしてなのか、と。」と疑問を呈している。
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