死去と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 09:49 UTC 版)
「グスタフ・シュトレーゼマン」の記事における「死去と評価」の解説
1928年、ハイデルベルク大学から名誉博士号を贈られる。しかし外務大臣としての激務からその頃から体調を崩しがちになり、1929年に脳卒中のため急死した。直後に世界大恐慌が始まり、彼の死は経済恐慌と結びつけられて、ヴァイマル共和国の平和な時代の終わりを告げる画期としてとらえられている。 かつての敵国であるイギリス・フランスと和解し欧州統合の先駆けを作った政治家としてシュトレーゼマンは記憶されているが、彼自身はヴェルサイユ条約改正論者でありオーストリア併合を含むドイツ東部国境の見直しを目指していたとされるが、オーストリア併合については実現可能性について懐疑的であったとの見方もある。1928年にレイモン・ポアンカレと会談した際、ドイツとオーストリアの大多数の国民は合併を支持しているが、「政治においては、感情の問題と政治的現実とを区別することが必要である」と述べたという。従って、例えばポーランドに対しては領土問題で強硬的な姿勢を崩していない。賠償金の履行政策やロカルノ条約・国際連盟加盟といった一連の協調外交も条約改正という自国の国益を目指しつつ推進したものであった。
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