死去と宗家継承問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 17:15 UTC 版)
1974年(昭和49年)3月4日、吐血して倒れ、同年5月20日、大阪赤十字病院で死去した。吐血の3日前には喜寿祝いの小宴の案内状を書いており、死は予感していなかった。 河野の死後、無双直伝英信流第21代宗家の継承争いが起こり、全日本居合道連盟は分裂した。河野は同連盟で数多くの門下を育てているが、結成前より内弟子として河野に師事していた弟子に平井阿字斎、清水俊光、谷島錬正がいる。この高弟らは河野の死後に起こった宗家継承問題で福井聖山が第21代を継ぐことになったことを受け連盟を脱退し、平井は大日本居合道連盟、清水は日本居合道連盟をそれぞれ設立し、またそれぞれが第21代を名乗っている。谷島のみ先師の遺した全日本居合道連盟に籍を残し、自ら21代を名乗ることはなかったものの、弟子たちによっては21代であるとされる場合もある。谷島はこうした混乱に嫌気が差し、1980年代後半以降、公の場にほとんど姿を見せていない。こうした混乱は数多くの自称宗家を生み出す大きな要因になったとされ、中には伝系を捏造し宗家を名乗る輩すら現れる始末で、混迷を極めている。
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