死去と列福
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 10:04 UTC 版)
フラ・アンジェリコは1455年に、ローマのドミニコ会修道院で死去した。おそらくローマ教皇ニコラウス5世の礼拝堂の絵画作成のためにこの修道院に滞在していたと考えられており、ローマのサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会に埋葬された。 キリストよ、我に栄誉を与え給えアペレスでありしためよりすべてを差し出せしために。我のなしとげし業地上、天界、異なりし。我、ジョヴァンニトスカーナの花にも似たるフィレンツェに生を享く — フラ・アンジェリコの墓碑銘 ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が1982年11月3日にフラ・アンジェリコを列福し、1984年にキリスト教芸術家の守護者として認定した。 アンジェリコは「キリストに関する絵画を描くのであれば、常にキリストとともに過ごさなければならない」と何度も語ったという。この考えが「福者アンジェリコ」という別称を彼にもたらしたといえる。アンジェリコの生涯はこの上なく高潔で、その絵画は神聖な美しさにあふれている。とくに聖母マリアを描いた作品は最上級のもので人々に大きな影響を与えている — ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世 フラ・アンジェリコに対するさまざまな評価から、彼が福者と呼ばれた理由を知ることができるかも知れない。ドミニコ会修道士として信心深く禁欲的な生活を送り、神に仕える身分から逸脱することは決してなかった。貧者を救済するという修道会の教えを守り、つねに愛想よくふるまう人物だった。彼が描いた多くの絵画はすべて聖なるものを扱った作品で、完成した作品に後から手を加えたり、修正したりすることは決してなかった。これはおそらく彼自身の宗教的信念によるもので、聖なる存在から霊感を受けて描いた絵画であるため、完成当時そのままの状態に留め置かれたのだろう。キリストの絵画を描く者は常にキリストとともにあらねばならないというのが彼の口癖だった。絵筆をとるときには常に祈りの言葉を捧げ、キリスト磔刑画を描いているときには涙を流していたに違いない。『最後の審判』と『受胎告知』は彼が特に何度も描いたテーマだった。 — イギリス人著述家ウィリアム・マイケル・ロセッティ (en:William Michael Rossetti)
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