歴史書『三国志』の受容とは? わかりやすく解説

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歴史書『三国志』の受容

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 15:21 UTC 版)

三国志」の記事における「歴史書『三国志』の受容」の解説

『三国志』は、信頼性乏し情報極力排して簡朴明解記述行ったため、「質直さにおいて司馬相如超える文章」(「陳寿伝」に載せる范頵の上表)「人物評価見るべきものがあり、記事は公正正確なものが多い」(裴松之「上三国志注表」)などの高い評価受けた。しかし南朝宋裴松之がその簡潔すぎる記述惜しみ当時存在した諸種文献引用し注釈作成した『三国志』とこの裴注、また『後漢書』『晋書』『華陽国志』『世説新語』などに散見する三国時代記述三国志史実世界構成している。 『三国志』戦乱激動記録後世、特に唐宋文人詩想大い刺激した『三国志』モチーフにした詩詞としては杜甫「蜀相」、杜牧赤壁」、蘇軾赤壁賦」、陸游「書憤」などが特に名高いまた、西晋左思252307)の『三都賦』が魏・呉・蜀それぞれの都の繁栄のさまを活写したと評価高く人々争って書き写そうとしたため当時印刷はまだなく手で書き写すしかなかった)紙が高騰し洛陽の紙価を高からしむ」の故事生まれた三国それぞれ正統性主張したが、魏が蜀を滅ぼした後、魏から禅譲を受けるという形で司馬炎建てた晋(西晋)によって、魏が正統であるとされた。しかし、南北朝時代入り、晋が全国政権ではなくなると(東晋)、習鑿歯蜀漢正統論を唱え次第注目されるようになった宋代には三国うちどの国が正統であるかという、いわゆる正閏論」が盛んになり、司馬光(『資治通鑑』)・欧陽脩(『明正統論』)・蘇軾(『正統弁論』)らは中国過半支配した実情から魏を正統とした。しかし、「正統」を決めようすること自体現実的側面よりは観念的倫理的な側面の強い議論であり、結局は観念論基づいた朱子蜀漢正統論(『通鑑綱目』)が主流となっていった。この歴史観朱子学流布と共に知識人階層広まり劉備善玉とする『三国志演義』基本設定一定の影響与えた清代考証学盛んになると、王鳴盛十七史商榷』・趙翼二十二史箚記』・銭大昕二十二史考異』・楊晨三国会要』など多く研究著された。これら考証学成果民国入って盧弼三国志集解』によって集大成された。また、三国志時代社会経済等については、同じく民国の陶元珍の『三国食貨志』(上海商務印書館 1934年)がある。

※この「歴史書『三国志』の受容」の解説は、「三国志」の解説の一部です。
「歴史書『三国志』の受容」を含む「三国志」の記事については、「三国志」の概要を参照ください。

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