歴史・信仰
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御嶽山は山岳信仰の山である。通常は富士山、白山、立山で日本三霊山と言われているが、このうちの白山又は立山を御嶽山と入れ替えて三霊山とする説もある。日本の山岳信仰史において、富士山(富士講)と並び講社として庶民の信仰を集めた霊山である。教派神道の一つ御嶽教の信仰の対象とされている。最高点の剣ヶ峰には大己貴尊とえびす様を祀った御嶽神社奥社がある。鎌倉時代御嶽山一帯は修験者の行場であったが、その後衰退していった。室町時代中期に神沢杜口の随筆『翁草』巻162で 御山禅定は百日精進せずしては上り得ず、其間は行場に入りて修行をなす、昼夜光明真言を誦し、水垢離をとるなり。其の料金三両二分百日間の行用とす。斯くのごとくなれば軽賦の者は登り得ず生涯大切の旨願ならねば籠らずとなり。 — 神沢杜口『翁草』巻162(室町時代中期) と記載されていて、山頂の御嶽神社奥社登拝に当たり麓で75日または100日精進潔斎の厳しい修行が必要とされ、この厳しい修行を行った者だけに年1回の登拝が許されていた。この「道者」と呼ばれる木曽谷の人々による登拝が盛んとなった。1560年(永禄3年)6月13日に木曽義昌が、従者と共に武運を祈願するために御嶽神社の里宮で100日の精進潔斎を終えた後に登拝した。江戸時代前期の行脚僧円空も登拝し、周辺の寺院で多くの木彫の仏像を残している。1785年(天明5年)に尾張春日井郡出身の覚明行者が、旧教団の迫害を退けて地元信者を借りて黒沢口の登拝道を築き、軽い精進登山を普及させるに成功し、厳しい修行をしなくても水行だけで登拝できるようになった。その後、普寛行者が王滝口を開いた。江戸時代に、王滝口、黒沢口および小坂口の3つの道が開かれることにより、尾張や関東など全国で講中(普寛講他)が結成されて御嶽教が広まり、信仰の山として大衆化されていった。江戸時代末期から明治初期にかけて毎年何十万人の御岳講で登拝され賑わっていた。江戸時代末期の『信濃奇勝録』で、 信州一の大山なり、嶽の形大抵浅間に類して、清高これに過ぐ、毎年6月諸人潔斎して登る、福島より十里、全く富士山に登るが如し。 — 信濃奇勝録(江戸時代末期) と記載されている。1868年(明治元年)に黒沢口の8合目には「女人堂」が御嶽山で最初に山小屋としての営業を開始し、この上部への女性の立ち入りが禁止されていたが、1872年の太政官通達により他の国内の山と比較して早くから女人禁制が解かれた。 王滝口と黒沢口の参道には多数の霊場と修行場跡がある。御嶽信仰では自然石に霊神(れいじん)の名称を刻印した「霊神碑」を建てる風習がある。黒沢口の参道には登拝者を祀った約5,000基の霊神碑があり、王滝口の参道にも多数の霊神碑が並ぶ。御嶽神社には蔵王権現が祀られていて、遠く離れた鳥居峠や和田峠などの遥拝所に御嶽信仰の石碑や祠が設置されている。江戸時代後期の絵師谷文晁が『日本名山図会』この山を描いて、名山として紹介した。林道黒石線と白崩林道の有料道路や御岳ロープウェイの開業に伴い、ひのき笠と金剛杖の白装束の信者で埋め尽くされていた登拝道に、一般の登山者が混じるようになってきた。1985年(昭和60年)以降に山腹に4つのスキー場が建設された。
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