歴史信仰とは? わかりやすく解説

歴史・信仰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 23:44 UTC 版)

御嶽山」の記事における「歴史・信仰」の解説

御嶽山山岳信仰の山である。通常富士山白山立山日本三霊山と言われているが、このうち白山又は立山御嶽山入れ替えて三霊山とする説もある。日本の山岳信仰史において、富士山富士講)と並び講社として庶民信仰集めた霊山である。教派神道一つ御嶽教信仰の対象とされている。最高点剣ヶ峰には大己貴尊とえびす様を祀った御嶽神社奥社がある。鎌倉時代御嶽山一帯修験者行場であったが、その後衰退していった。室町時代中期神沢杜口随筆翁草』巻162御山禅定百日精進せずしては上り得ず、其間は行場入り修行をなす、昼夜光明真言誦し水垢離をとるなり。其の料金三両二分百日間の行用とす。斯くのごとくなれば軽賦の者は登り得ず生涯大切の旨願ならねば籠らずとなり。 — 神沢杜口翁草』巻162室町時代中期) と記載されていて、山頂御嶽神社奥社登拝に当たり麓で75日または100日精潔斎厳し修行が必要とされ、この厳し修行行った者だけに年1回の登拝が許されていた。この「道者」と呼ばれる木曽谷人々による登拝が盛んとなった1560年永禄3年6月13日木曽義昌が、従者と共に武運祈願するために御嶽神社里宮100日の精進潔斎終えた後に登拝した江戸時代前期行脚円空も登拝し周辺寺院多く木彫仏像残している。1785年天明5年)に尾張春日井郡出身覚明行者が、旧教団の迫害退けて地元信者借りて黒沢口の登拝道を築き、軽い精進登山普及させる成功し厳し修行をしなくても水行だけで登拝できるようになったその後普寛行者王滝口開いた江戸時代に、王滝口黒沢口および小坂口3つの道が開かれることにより、尾張関東など全国講中普寛講他)が結成され御嶽教広まり信仰の山として大衆化されていった江戸時代末期から明治初期にかけて毎年何十万人御岳講で登拝され賑わっていた。江戸時代末期『信濃奇勝録』で、 信州一の大山なり、嶽の形大抵浅間類して清高これに過ぐ毎年6月諸人潔斎して登る福島より十里、全く富士山登る如し。 — 信濃奇勝録江戸時代末期) と記載されている。1868年明治元年)に黒沢口の8合目には「女人堂」が御嶽山最初に山小屋としての営業開始しこの上部への女性立ち入り禁止されていたが、1872年太政官通達により他の国内の山と比較して早くから女人禁制解かれた。 王滝口黒沢口参道には多数霊場修行場跡がある。御嶽信仰では自然石霊神れいじん)の名称を刻印した「霊神碑」を建てる風習がある。黒沢口参道には登拝者を祀った約5,000基の霊神碑があり、王滝口参道にも多数霊神碑が並ぶ。御嶽神社には蔵王権現祀られていて、遠く離れた鳥居峠和田峠などの遥拝所御嶽信仰石碑や祠が設置されている。江戸時代後期絵師谷文晁が『日本名図会』この山を描いて名山として紹介した林道黒石線と白崩林道有料道路御岳ロープウェイ開業に伴いひのき笠と金白装束信者埋め尽くされていた登拝道に、一般登山者混じるようになってきた。1985年昭和60年以降山腹4つスキー場建設された。

※この「歴史・信仰」の解説は、「御嶽山」の解説の一部です。
「歴史・信仰」を含む「御嶽山」の記事については、「御嶽山」の概要を参照ください。

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