歴代天皇の確定とは? わかりやすく解説

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歴代天皇の確定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 20:24 UTC 版)

天皇の一覧」の記事における「歴代天皇の確定」の解説

歴代天皇確定するための基準定まったのは、大正時代末期のことである。このとき示され基準によって、「歴代天皇126代、124人」という現在の歴代天皇の形が確定している。 歴代天皇厳密な確定要請されたのは、明治時代になってからである。明治時代には、天皇中心とする中央集権国家体制整備進められ1889年明治22年)には、その根本規範として大日本帝国憲法公布された。同憲法では、歴代天皇を指す「皇祖・皇宗」が、天皇の地位正当性正統性)と、天皇総攬する統治権淵源として重視された(告文憲法發布勅語、および上諭など)。このため歴代天皇在りようが論じられ、その確定が行われた。 歴代天皇の確定にあたっては、江戸時代水戸藩編纂された『大日本史』、およびその編纂過程発展した水戸学尊王論考え方大きな影響与えた。これらの思想基づいて在るべき歴代天皇の姿が論じられ歴代天皇確定した。なお、いくつかの観点から、それまで歴代天皇(帝)から変更され部分もある。主な基準観点、および変更された点次の通り明治時代以前は、神功皇后第15代の帝と数えた史書多数あったが、歴代天皇から外した。『大日本史』が採った立場に基づくものである。この結果、第33代推古天皇最初女性天皇となった初代神武天皇から第62村上天皇までは、崩御後漢風諡号追号として「○○天皇」と呼ばれていたが、第63冷泉天皇から第118後桃園天皇までは、「○○院」(例:冷泉院)と呼ばれ、「○○天皇」とは呼ばれていなかった(ただし、安徳天皇後醍醐天皇を除く)。この「天皇」号が復活するのは第119代光格天皇のときからである。明治時代になり、すべての天皇を「○○天皇」と呼ぶように改められ以後、「○○院」という呼称廃された。 壬申の乱敗れた大友皇子は、天皇として数えられていなかったが、『大日本史』が「大友天皇」として歴代列した明治入って即位確認されということになり、1870年明治3年)に「弘文天皇」の諡号追諡した。現在では非即位説が有力。即位の是非をめぐる議論については、大友皇子即位説参照されたい。 第47代「淡路廃帝に対しては、1870年明治3年)に「淳仁天皇」の諡号追諡した。 承久の乱敗れた九条廃帝」は天皇数えていなかったが、1870年明治3年)に「仲恭天皇」の諡号追諡した。 1911年明治44年)には明治天皇裁定により、南朝義良親王熙成親王正統天皇認めてこれを後村上天皇後亀山天皇とし、それまで正統として扱われていた光厳天皇光明天皇崇光天皇後光厳天皇後円融天皇5代北朝天皇として正統から外すとともに後小松天皇在位期間1392年明徳3年)の南北朝合一以後のみとした。これも『大日本史』が採った立場に基づくものである1926年大正15年)には大正天皇実質摂政皇太子裕仁親王(後の昭和天皇))の裁定で、南朝寛成親王を「長慶天皇」とした。この寛成親王については、南朝正統とした後も即位是非について意見分かれていたが、高野山納められ願文に「太上天皇寛成」の宸筆署名があることなどの史料によってその即位確認されということになり、天皇したものである。

※この「歴代天皇の確定」の解説は、「天皇の一覧」の解説の一部です。
「歴代天皇の確定」を含む「天皇の一覧」の記事については、「天皇の一覧」の概要を参照ください。

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