歴代天皇の確定
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歴代天皇を確定するための基準が定まったのは、大正時代末期のことである。このとき示された基準によって、「歴代天皇は126代、124人」という現在の歴代天皇の形が確定している。 歴代天皇の厳密な確定が要請されたのは、明治時代になってからである。明治時代には、天皇を中心とする中央集権国家体制の整備が進められ、1889年(明治22年)には、その根本規範として大日本帝国憲法が公布された。同憲法では、歴代の天皇を指す「皇祖・皇宗」が、天皇の地位の正当性(正統性)と、天皇が総攬する統治権の淵源として重視された(告文、憲法發布勅語、および上諭など)。このため、歴代天皇の在りようが論じられ、その確定が行われた。 歴代天皇の確定にあたっては、江戸時代に水戸藩で編纂された『大日本史』、およびその編纂過程で発展した水戸学、尊王論の考え方が大きな影響を与えた。これらの思想に基づいて在るべき歴代天皇の姿が論じられ、歴代天皇は確定した。なお、いくつかの観点から、それまでの歴代天皇(帝)から変更された部分もある。主な基準、観点、および変更された点は次の通り。 明治時代以前は、神功皇后を第15代の帝と数えた史書が多数あったが、歴代天皇から外した。『大日本史』が採った立場に基づくものである。この結果、第33代推古天皇が最初の女性天皇となった。 初代神武天皇から第62代村上天皇までは、崩御後の漢風諡号・追号として「○○天皇」と呼ばれていたが、第63代冷泉天皇から第118代後桃園天皇までは、「○○院」(例:冷泉院)と呼ばれ、「○○天皇」とは呼ばれていなかった(ただし、安徳天皇と後醍醐天皇を除く)。この「天皇」号が復活するのは第119代光格天皇のときからである。明治時代になり、すべての天皇を「○○天皇」と呼ぶように改められ、以後、「○○院」という呼称は廃された。 壬申の乱で敗れた大友皇子は、天皇として数えられていなかったが、『大日本史』が「大友天皇」として歴代に列した。明治に入って、即位が確認されたということになり、1870年(明治3年)に「弘文天皇」の諡号を追諡した。現在では非即位説が有力。即位の是非をめぐる議論については、大友皇子即位説を参照されたい。 第47代「淡路廃帝」に対しては、1870年(明治3年)に「淳仁天皇」の諡号を追諡した。 承久の乱に敗れた「九条廃帝」は天皇に数えていなかったが、1870年(明治3年)に「仲恭天皇」の諡号を追諡した。 1911年(明治44年)には明治天皇の裁定により、南朝の義良親王と熙成親王を正統な天皇と認めてこれを後村上天皇と後亀山天皇とし、それまでは正統として扱われていた光厳天皇・光明天皇・崇光天皇・後光厳天皇・後円融天皇の5代を北朝の天皇として正統から外すとともに、後小松天皇の在位期間を1392年(明徳3年)の南北朝合一以後のみとした。これも『大日本史』が採った立場に基づくものである。 1926年(大正15年)には大正天皇(実質は摂政の皇太子裕仁親王(後の昭和天皇))の裁定で、南朝の寛成親王を「長慶天皇」とした。この寛成親王については、南朝を正統とした後も即位の是非について意見が分かれていたが、高野山に納められた願文に「太上天皇寛成」の宸筆署名があることなどの史料によってその即位が確認されたということになり、天皇としたものである。
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