武州伝来記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/02 06:22 UTC 版)
造酒之助は西ノ宮の馬追なり。武州、或時、尼ヶ崎街道を乗掛け馬にて通らる。西ノ宮の駅にて、十四五の童、馬の口取りすすみ行く。武州、馬上よりつくづくと彼の童がつら魂を見て、其方、われ養ひて子にしてよき主へ出だすべし、養はれよ、と有りければ、彼の童申し様、仰せは忝なく候へども、われ、老の親をもてり、某此の如く馬子をして養へり、御身の養子になりては両親難儀に及ぶべし、御免あれと申す。武州、聞き玉ひ、先づ、其方が家につれ行けとて、彼の家に至り、両親に右の旨趣を申し聞け、当分の難儀これ無き様に金子をあたへ、処の者にも懇ろに頼み置き、彼の童を伴ひ、暫く育ひ置て、播州姫路の城主、本多中務太輔忠刻卿へ差し出ださる。中書殿、御心に叶ひ、段々立身せり。しかれども、子細あって暇申し請、江戸へ下る。中書殿、不幸にして早世し玉ふ。武州、其頃大坂に居て、此の事を聞き、近日造酒之助来るべし、生涯の別れ為るべし、馳走すべしと也。かくて、暫くあつて造酒之助入来す。武州、悦びに堪へず、甚だ饗し玉ふ。造酒之助、盃を所望して戴き、これより直に姫路へ相越し候通り申し達す。武州、尤の覚悟の由、あいさつ有り。造酒之助、姫路へ至り、追い腹せしといへり。惜しむべし、惜しむべし。
※この「武州伝来記」の解説は、「宮本三木之助」の解説の一部です。
「武州伝来記」を含む「宮本三木之助」の記事については、「宮本三木之助」の概要を参照ください。
武州伝来記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 04:48 UTC 版)
筑前黒田藩の二天一流師範・立花峯均(丹治峯均)が編纂した武蔵の伝記『武州伝来記』にも伊織の記事がある。ここには武蔵が小笠原公の側近に出仕させた時のいきさつが書かれているのが注目される。 一、武州、壮年より妻子なし。宮本伊織、同造酒之助、両人ともに養子也。伊織は商家の子といへり。豊州小倉の城主、小笠原右近将監忠貞公に勤仕せり。武州、或時、御物語の序に、某し子を守り、差し上げ申すべし。打ち込みに召し仕れ候ては御用に立ちがたし。御側に召し置かれ、御家老衆へ何ぞ御内用等の取次ぎをも仰せ付けられ候はば、畢竟御用に相立ち申すべき由、申し述ぶ。武州、目利きに違ひなく、段々立身いたし、小笠原の御家譜代の歴々を越えて一老に経揚がり、五千石采地下さる。天下の御老中も伊織をよく御存知成らせられ、世上にても名臣と唱へる程の者也。譜代の家臣共、しきみを隔てて座し、道路を行くにも、伊織は塵かかりて悪しとて、二間ほど先立て、残る面々は一列に跡より行きけり。しかれども、少しも慮外とも、奢りとも見えざりしとかや。忠貞公、忠雄公、二代にわたり職分を勤めたり。忠雄公、壮年、御身持ち宜しからず、わが侭の御仕形等、 上聞に達し、格段の御家柄ゆへ、家老ども江戸へ召し呼ばれ、 御老中の御宅にて御呵(しか)りあり。其の節も、伊織は定めて諫言をも申したるにてこれ有るべし。伊織に於ては御呵に及ばずとて、東府へも召なされずとかや。今尚、伊織が子孫、小笠原の家臣たり。 後半には伊織の小笠原藩での出頭ぶりと、忠真、忠雄二代の君公に深く信頼された名臣であったこと、将軍・幕閣にまで名を知られた名宰相であったことを伝えている。
※この「武州伝来記」の解説は、「宮本伊織」の解説の一部です。
「武州伝来記」を含む「宮本伊織」の記事については、「宮本伊織」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
Weblioに収録されているすべての辞書から武州伝来記を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- 武州伝来記のページへのリンク