武州世直し一揆と柳窪
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「柳窪 (東久留米市)」の記事における「武州世直し一揆と柳窪」の解説
慶応2年6月13日(1866年7月24日)、秩父郡上名栗村に端を発し、武蔵17郡・上野2郡に及んだ武州世直し一揆には、農民・民衆等10万人余が参加したといわれる。一揆勢は各地で米の安売りや施金・施米、質地証文・借金証文の廃棄などを求めて次つぎに豪農・豪商を襲いながら、鎮圧される同月19日(西暦7月30日)までの7日間で関東西部各地に広がった。打ちこわしの被害にあった村は202村。幕末期、しかも将軍のお膝元で起きた関東最大の一揆が幕藩体制に与えた衝撃は大きく、幕府の威信を揺るがし、その瓦解を早めた要因のひとつとなった。 この一揆の鉾先は柳窪にも向けられた。6月14日 - 15日(西暦7月25日 - 26日)に扇町屋、所沢などで豪・農商を襲い、16日(西暦7月27日)早朝には大岱村の亀次郎宅を打ちこわしたあと、柳窪村の名主七郎右衛門宅と分家・農業七次郎宅にも打ちこわしをかけた。その数は数百人との説もあるが定かではない。江戸の江川代官所内にあった砲術訓練所でかねてより特別の訓練を受けていた農民の武装組織、いわゆる江川農兵が一揆勢の鎮圧にあたった。田無村に出張中の江川代官所の役人は柳窪村打ちこわしの報を受け、すぐさま鉄砲をもった農兵16人と村役人や人足など150人ほどをひきつれ出陣した。農兵は七次郎宅打ちこわし中の一揆勢に向けて容赦なく発砲した。その結果、武器をもたない一揆勢はたちまち総崩れとなった。即死者8名、逮捕者13名、負傷者80余名という結果を残して、一揆勢は鎮圧・壊滅された。事件発生の翌慶応3年4月(1867年5月)、襲撃を受けた農業村野七次郎ら12人の上層農は今後に備えて食料の備蓄などについて対策を講じ、自然災害や農民の困窮に備えて、村人全員257人60日分の食糧を備蓄すること、また非常の際、窮民への助成金として金10両を積み立てておくことを取り決めた記録が残されている。 村野七次郎宅であった村野家住宅(柳窪四丁目)には、主屋の奥座敷の床柱や長押に鋸や鎌などによると思われる襲撃の傷跡が今も残っている。 一揆勢を鎮圧刷るための江川農兵の出動は、柳窪村だけでなく、昭島市(築地川原、日野・八王子農兵)、あきる野市(入野村、五日市・桧原農兵)にも及んでいる。江川役所手代らの「見かけ次第うち殺すべし」との指示のもと、これらの地域でも激しい戦闘が繰り広げられた。築地川原での死者は18人、召捕は41人。入野村では死者10人、召捕26人であったという。武州世直し一揆展開図によれば、他所では藩兵・関東取締出役・自警団などが鎮圧にあたっていたが、多摩郡の江川支配下では、村の治安維持装置として武装農兵組織を本格的に稼働させた。柳窪村における一揆鎮圧は、このような武装農民組織が実戦投入されたケースとして注目される。
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