武州世直し一揆と柳窪とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 武州世直し一揆と柳窪の意味・解説 

武州世直し一揆と柳窪

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 15:36 UTC 版)

柳窪 (東久留米市)」の記事における「武州世直し一揆と柳窪」の解説

慶応2年6月13日1866年7月24日)、秩父郡上名栗端を発し武蔵17郡・上野2郡に及んだ武州世直し一揆には、農民民衆10万人余が参加したといわれる一揆勢は各地で米の安売りや施金・施米質地証文借金証文廃棄などを求めて次つぎに豪農豪商襲いながら、鎮圧される同月19日西暦7月30日)までの7日間関東西部各地広がった打ちこわし被害にあった202幕末期、しかも将軍お膝元起きた関東最大一揆幕藩体制与えた衝撃大きく幕府威信揺るがし、その瓦解早めた要因のひとつとなった。 この一揆鉾先柳窪にも向けられた。6月14日 - 15日西暦7月25日 - 26日)に扇町屋所沢などで豪・農商を襲い16日西暦7月27日早朝には大岱の亀次郎宅を打ちこわしたあと、柳窪名主七郎右衛門宅と分家農業次郎宅にも打ちこわしをかけた。その数は数百人との説もあるが定かではない江戸江川代官所にあった砲術訓練所かねてより別の訓練受けていた農民武装組織いわゆる江川農兵一揆勢の鎮圧あたった田無村出張中の江川代官所役人柳窪打ちこわしの報を受け、すぐさま鉄砲をもった農兵16人と村役人人足など150人ほどをひきつれ出陣した農兵は七次郎打ちこわし中の一揆勢に向けて容赦なく発砲したその結果武器もたない一揆勢はたちまち総崩れとなった即死者8名、逮捕者13名、負傷者80余名という結果残して一揆勢は鎮圧壊滅された。事件発生の翌慶応3年4月1867年5月)、襲撃受けた農業村野次郎12人の上層農は今後備えて食料備蓄などについて対策講じ自然災害農民困窮備えて村人全員25760分の食糧備蓄すること、また非常の際、窮民への助成金として金10両を積み立てておくことを取り決めた記録残されている。 村野次郎であった村野家住宅(柳窪四丁目)には、主屋奥座敷床柱長押に鋸や鎌などによると思われる襲撃傷跡が今も残っている。 一揆勢を鎮圧刷るための江川農兵出動は、柳窪だけでなく、昭島市築地川原、日野八王子農兵)、あきる野市入野村五日市桧原農兵)にも及んでいる。江川役所手代らの「見かけ次第うち殺すべし」との指示のもと、これらの地域でも激し戦闘繰り広げられた。築地川原での死者18人、召捕は41人。入野村では死者10人、召捕26であったという。武州世直し一揆展開図によれば他所では藩兵・関東取締出役自警団などが鎮圧にあたっていたが、多摩郡江川支配下では、治安維持装置として武装農兵組織本格的に稼働させた。柳窪における一揆鎮圧は、このような武装農民組織実戦投入されたケースとして注目される

※この「武州世直し一揆と柳窪」の解説は、「柳窪 (東久留米市)」の解説の一部です。
「武州世直し一揆と柳窪」を含む「柳窪 (東久留米市)」の記事については、「柳窪 (東久留米市)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「武州世直し一揆と柳窪」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「武州世直し一揆と柳窪」の関連用語

1
柳窪 百科事典
10% |||||

武州世直し一揆と柳窪のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



武州世直し一揆と柳窪のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの柳窪 (東久留米市) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS