武川衆の起源
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 15:48 UTC 版)
中世甲斐国では特定地域に土着する「〜衆」と呼ばれる辺境武士団が存在し戦国期には武田家臣化しているが、武川衆は津金衆や九一色衆とともにその代表的存在である。鎌倉時代に一条時信(源八)の子孫から分出する。 甲斐一条氏は、甲斐源氏の棟梁・武田信義の嫡男である一条忠頼に始まる。甲斐一条氏は鎌倉幕府を開創した源頼朝の粛正を受けて一時は没落したものの、『尊卑分脈』によれば一条忠頼は甲斐守護であったという。また、巨摩郡に存在する甘利荘の地頭を務め、武田八幡宮(韮崎市神山町北宮地)へ一条信長が大般若経を奉納しているなど、武川筋との関係が強い。 室町時代には応永24年(1417年)の上杉禅秀の乱に甲斐守護・武田信満が加担して滅亡すると、甲斐は守護不在状態となる。こうした状況の中、甲斐国内では永享5年(1433年)に「輪宝一揆」と結んだ甲斐守護代・跡部氏と「日一揆」と結んだ武田信長の間で荒川合戦が発生する。甲斐一条氏の創建した一蓮寺の『一蓮寺過去帳』によれば、信長方の「日一揆」には柳沢氏ら武川衆の氏族が荷担していることが確認される。 『一蓮寺過去帳』では、そのほかにも天正10年(1582年)の武田氏滅亡まで山高氏・白州氏・馬場氏ら武川衆の氏族の記載が見られる。
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