次期主力小銃候補として
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「M1941ジョンソン小銃」の記事における「次期主力小銃候補として」の解説
予備役海兵大尉でもあった弁護士のメルヴィン・ジョンソン(英語版)は、当時次期主力小銃の有力候補と目されていた半自動小銃に否定的な評価を下した銃器設計者の1人だった。ジョンソンの見解において、2つの有力候補、すなわちジョン・ガーランド設計案(M1ガーランド)とジョン・ピダーセン(英語版)設計案(ピダーセン自動小銃)は、いずれも欠陥があり、大量生産にも向かないとされた。こうしてジョンソンは信頼性や射撃精度がより優れ、量産にも適した小銃の設計に着手し、1935年にスクラップ部品を用いて最初の試作品を完成させた。1937年9月28日には一連の銃器設計に関連する最初の特許(アメリカ合衆国特許第 2,094,156号)を取得している。 1936年にはガーランド設計案の採用が決定していたものの、何度かの交渉を経て、1938年6月にはジョンソンが設計した反動利用式小銃および軽機関銃の非公式試験の実施が陸軍武器省によって認められた。1938年8月、マーリン・ファイアアームズ(英語版)社にてジョンソンの特許のもと製造された試作品を用い、アバディーン試験場にて最初の評価試験が実施された。その後、試験結果を受けた改良が図られた。強度不足が指摘された箱型弾倉に代わって、特徴的なロータリー型弾倉が採用されたのもこの時だった。 改良を加えた新たな試作品の製造は、以前にもジョンソンの手がけた民生用ライフルの製造を行ったことのあるタフト=パース(英語版)社が担当した。1939年12月に2度目の試験が行われたが、1940年2月23日付の報告書によれば、着剣時の動作不良、弾倉の強度不足、砂塵などの異物侵入による動作不良といった点がジョンソン小銃の問題として指摘された。この時点でジョンソンは陸軍への売り込みを断念し、M1ガーランドの採用を躊躇していた海兵隊へと目を向けた。1940年5月、クアンティコ海兵隊基地(英語版)にて海兵隊向けの最初の試験が行われた。以後の試験においてはガーランド小銃よりも高く評価されていたが、既に陸軍がガーランド小銃の採用を決定し、量産体制も整えられていたため、部品調達など兵站上の理由を背景に、1941年初めにジョンソンはM1ガーランドへの支持を表明し、自らの設計案を撤回した。しかし、ジョンソンはその後も改良を進めており、新たなモデルには軍での採用を想定したM1941という製品名が与えられた。なお、これはアメリカ軍における制式名称ではない。当時、採用年を用いる銃器の命名規則は既に廃止されていた。 ジョンソンは自ら手がけた銃器を軍部に売り込むにあたり、政治的な働きかけも積極的に行った。ガストラップ式を採用していた初期型M1ガーランドの不良や製造の遅れが報告された際には、上院委員会にて陸軍武器省を批判する証言を行った。既にスプリングフィールド造兵廠でM1ガーランドの量産が本格化し始めていた1940年にも上院小委員会での証言を行っている。こうした働きかけを受け、軍事委員会議長から上院に対し、ジョンソン小銃を制式名称M2半自動小銃(United States semiautomatic rifle, M2, caliber, .30)として採用するための法案が提出されている。しかし、この時点で改めて主力小銃を採用することは非現実的な選択と見なされ、陸軍長官によるM1ガーランドの推薦を以ってジョンソン小銃の不採用が決定したのだった。
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