極地探検飛行とは? わかりやすく解説

極地探検飛行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/09 17:13 UTC 版)

イタリア (飛行船)」の記事における「極地探検飛行」の解説

ノビレは5回の探検飛行計画した。それはいずれニーオーレスン(キングズベイ)から出発して同地に戻るコースであったが、探検する区域それぞれ異なっていた。 最初飛行1928年5月11日ニーオーレスン(キングズベイ)から出発したが、着氷制御システム問題発生、わずか8時間引き返した2度目飛行5月15日離陸当時まだ地図載っていなかったニコライ2世島までの2,500マイル (4,000 km)を往復し気象磁気地理に関する貴重なデータ収集した3回目飛行1928年5月23日開始され、強い追い風助け借りて1928年5月24日午前0時24分に北極点到達したノビレ天候の悪化により着陸実施できなかったが、複数研究者氷上降ろ目的ウインチ膨張式の筏、それに(なんとも幸運なことに)サバイバルパックを準備していた。代わりにイタリアおよびミラノの旗と、ローマ教皇から渡され木製十字架氷上投下し5月24日2時20分、イタリア号基地戻り始めた天候極めて悪く視界はようやく地表確認できる程度であり、探検隊気象学者フィン・マルムグレン予測従い近距離にあるはずの風の穏やかな区域出よう悪戦苦闘した5月25日午前9時25分、最初事故起こった昇降舵制御が効かなくなり下向き固定されてしまったのであるイタリア号すべてのエンジン停止し層上3,000フィート(約900 m)まで上昇重要な点として30分間明る陽光船体さらしている。エンジン再起動その後特段問題なく1,000フィート(約300 m)まで降下したが、10時25になって船体がテイルヘビーの状態にあり、1秒間に2フィート60 cm)の速度降下していることが判明した昇降舵一杯上げ重量物を投棄したにもかかわらず飛行船墜落氷塊衝突した操縦キャビン壊れると直後船体から脱落し生存者9人と1人遺体氷上残された。気嚢はまだ空中浮いたままであり、残る6人の搭乗者地上降りることができない。エットーレ・アルドゥイノ主任技師気嚢とともに徐々に吹き流されつつ注目に値する冷静さ発揮積載物を手あたり次第氷上男たち投げ落した一方で生存者たちはこうして必需品荷物手に入れ長期間試練を耐えしのぶことが出来たのであるが、他方漂流した気嚢とアルドゥイノ含む乗員は、ついに発見されなかった。墜落場所はおおよそ北緯8114分、東経2814分の地点である。生存者乗った浮氷は、フォイン島(英語版)とブロック島方向流されていた。

※この「極地探検飛行」の解説は、「イタリア (飛行船)」の解説の一部です。
「極地探検飛行」を含む「イタリア (飛行船)」の記事については、「イタリア (飛行船)」の概要を参照ください。

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