桜隊結成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 03:07 UTC 版)
1941年(昭和16年)6月9日、大政翼賛会大会議室で日本移動演劇聯盟が結成される。これは戦時体制にともなって全国各地を巡業する劇団もすべて国家の統制下に置こうとする国策組織で、表向き民間の要請により結成という形をとっていたが、実際は内閣情報局のテコ入れで結成されたものだった。同時にプロレタリア演劇の新築地劇団、新協劇団、そして彼らを支援する雑誌を出版するテアトロ社は強制的に解散させられ、丸山は大きな打撃を受ける。 この弾圧によって多くの俳優たちが分裂し行き場を失う中、劇作家の八田尚之は「愉快な演劇、一大喜劇団で国家に寄与」することを表向きの目的として、分裂した俳優たちの再結成を目論んだ。この呼びかけに丸山も応じることになり、1942年(昭和17年)に丸山、高山徳右衛門(薄田研二)、藤原鶏太(藤原釜足)、徳川夢声の4人が創立同人となって「苦楽座」が旗揚げすることとなる。この劇団には新協劇団の仲みどり、そして参加経緯は不明とされているが元宝塚のプリマ女優・園井恵子など、後に丸山と共に広島で遭難することになる人々も参加した。 一方、丸山が文学座に客演して大ヒットした舞台『富島松五郎伝』(国民新劇場、5月6日から5月21日まで、原作:岩下俊作、脚色:森本薫、演出:里見弴)は、翌1943年(昭和18年)に大映で『無法松の一生』として映画化され、舞台では杉村春子が演じたヒロインに園井恵子が抜擢されることとなる。この映画のヒットにより園井は映画界に留まることを要望されるが未熟という理由で拒否、苦楽座へと戻っていった。 サイパン島が陥落して、日本との距離を縮めたアメリカ軍が頻繁に本土空襲を行うようになり、本土決戦計画が立案されると、それは丸山たち国策と無関係に演劇活動を続けようとする俳優たちの活動にも影響を与えるようになった。映画館や劇場の相次ぐ閉鎖を受ける形で、1944年(昭和19年)12月24日に苦楽座は解散。しかしなおも演劇を続けたい、演劇を続けて暗い世相に活気を取り戻したいと熱望した丸山は、内閣情報局が奨励する移動慰問劇団の結成を思いつき、翌1945年(昭和20年)、移動演劇桜隊を結成する。そして、この時期になってやっと丸山は移動演劇聯盟に加入することとなった。この劇団には園井、仲の他、高山象三(薄田研二の息子)、多々良純、森下彰子などの俳優、八田元夫などの演出スタッフなど総勢17名が参加した。1945年6月末に広島の駐屯が決定し、7月4日のNHK広島放送局でのラジオ出演後、巡業を開始する。八田元夫の証言によると、この時、既に丸山は高熱に悩まされていた。(肋膜炎の遠因は自転車での転倒らしい)岡山、鳥取などの農山漁村、生産工場などを数か所を巡業した記録がある。中には巡業先に人が集まらず、子どもたち数名を前に演じた場所もあったという。しかし、旅の当初から患っていた肋膜炎が悪化したため、劇団員らは公演中止を促すも隊長としての責任感から、丸山は頑として跳ねつけた。しかし、体調悪化でいよいよ公演続行が不可能になり、1945年7月16日、拠点がある広島市堀川町の寮に引き上げることとなった。
※この「桜隊結成」の解説は、「丸山定夫」の解説の一部です。
「桜隊結成」を含む「丸山定夫」の記事については、「丸山定夫」の概要を参照ください。
- 桜隊結成のページへのリンク