松尾小笠原氏と木曽氏の侵攻
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「遠山氏」の記事における「松尾小笠原氏と木曽氏の侵攻」の解説
戦国時代が始まったとされる応仁元年(1467年)、細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)との間で応仁の乱が発生すると、美濃守護土岐成頼は西軍となって京で戦い留守は守護代格の斎藤妙椿が守っていた。 文明5年(1473年)10月に斎藤妙椿が伊勢遠征を行なうと、その隙をついて、東軍の信濃国松尾城主の小笠原家長が伊那谷から、木曽家豊が木曽谷から東美濃に侵攻した。遠山諸氏はこれを防げず、大井城 (美濃国)を占領され、土岐郡釜戸村の苅安城まで落城した。その後、苗木遠山氏は木曽氏の支配下にあったようである。岩村遠山氏は遠山景廣が大和守と称し岩村城を改修して防備し領地を護った。 長享元年(1487年)と延徳3年(1491年)に長享・延徳の乱が勃発した際に将軍足利義尚方として土岐政房と共に二番衆として遠山神野小太郎、遠山藤次郎、遠山加藤次、遠山神野小太郎。三番衆として遠山櫛原藤五郎、遠山岩村某、遠山安岐孫次郎、飯間孫三郎。五番衆として遠山櫛原次郎、遠山馬籠右馬介が参戦した。 長享2年(1488年)の『蔭涼軒日録』には「遠山には三魁がある。第一は苗木、第二は明知、第三は岩村といい・・・」と、信濃国と尾張国を結ぶ木曽川の流通を抑える苗木遠山氏の隆盛が伝わっている。 永正元年(1504年)の木曽の王滝城(木曽郡王滝村崩越)の戦いでは、中津川、大井、落合の軍勢が木曽義元の家臣として戦っている。 大永4年(1524年)3月に小笠原定基の家臣高柴景長が神明神社の造営に関わっている。 天文3年(1534年)、松尾小笠原氏の小笠原定基は、鈴岡小笠原氏の旧臣である下条氏と府中小笠原長棟に敗れ、甲斐に逐電し恵那郡から撤退したので遠山氏は恵那郡中部(現在の武並駅~中津川駅あたり)の旧領を取り戻した。その過程で落合村は下条氏の侵攻を受けている。岩村遠山氏の遠山景前は甲斐恵林寺を再興した名僧の明叔慶浚を菩提寺の大圓寺に招き、岩村遠山氏は再び勢いを取り戻した。しかし苗木遠山氏については依然木曽氏の傘下に留まっていた。 天文7年(1538年)、岩村遠山氏の遠山景前と思われるが、大井町の武並神社に梵鐘を寄進する。その銘には「濃州恵那郡遠山荘大井郷正家村武並大明神之鐘 天文七年戊戌七月十二日鋳之」とあった。(厳邑府誌)。 天文11年(1542年)には遠山景安が笠木社に梵鐘を寄進する。その銘には「濃州賀茂郡笠木為新寄進本願(中略)天文十一寅壬年十一月二十日遠山左衛門尉藤原景安」とある。(苗木遠山家譜)。苗木遠山氏が苗木で勢力を保っていたことがわかる。 天文11年(1542年)の秋、守護代の斎藤道三が叛いて突如大桑城に居た守護の土岐頼芸を攻めた時に遠山景正の子で岩村城主の遠山正景が土岐頼芸に仕えていたため防戦した。(遠山家譜) 天文14年(1545年)『木曽考』によると、木曽義康の兵が中津川防衛のため上兼(中津川上金)との途中の茶屋坂で戦い、義康の家臣萩原主水(本名遠山)が安田新七郎を討ち取っているため、当時も苗木遠山氏は木曽氏の傘下にあったと考えられる。
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