松尾小笠原氏と木曽氏の侵攻とは? わかりやすく解説

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松尾小笠原氏と木曽氏の侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 04:35 UTC 版)

遠山氏」の記事における「松尾小笠原氏と木曽氏の侵攻」の解説

戦国時代始まったとされる応仁元年1467年)、細川勝元東軍)と山名宗全西軍)との間で応仁の乱発生すると、美濃守土岐成頼西軍となって京で戦い留守守護代格の斎藤妙椿守っていた。 文明5年1473年10月斎藤妙椿伊勢遠征行なうと、その隙をついて、東軍信濃国松尾城主の小笠原家長伊那谷から、木曽家豊木曽谷から東美濃侵攻した遠山諸氏はこれを防げず、大井城 (美濃国)占領され土岐郡釜戸村苅安城まで落城した。その後苗木遠山氏木曽氏支配下にあったようである。岩村遠山氏遠山景廣が大和守と称し岩村城改修して防備し領地を護った。 長享元年1487年)と延徳3年1491年)に長享・延徳の乱勃発した際に将軍足利義尚方として土岐政房と共に二番衆として遠山神野小太郎遠山藤次郎遠山加藤次、遠山神野小太郎三番衆として遠山櫛原藤五郎遠山岩村某、遠山安岐孫次郎飯間孫三郎。五番衆として遠山櫛原次郎遠山馬籠馬介参戦した長享2年1488年)の『蔭涼軒日録』には「遠山には三魁がある。第一苗木第二明知第三岩村といい・・・」と、信濃国尾張国を結ぶ木曽川流通抑える苗木遠山氏隆盛伝わっている。 永正元年1504年)の木曽王滝城(木曽郡王滝村崩越)の戦いでは、中津川大井落合軍勢木曽義元家臣として戦っている。 大永4年1524年3月小笠原定基家臣高柴景長が神明神社造営に関わっている。 天文3年1534年)、松尾小笠原氏小笠原定基は、鈴岡小笠原氏旧臣である下条氏と府中小笠原長棟敗れ甲斐逐電し恵那郡から撤退したので遠山氏恵那郡中部(現在の武並駅中津川駅あたり)の旧領取り戻した。その過程落合村下条氏の侵攻受けている。岩村遠山氏遠山景前甲斐恵林寺再興した名僧明叔慶浚菩提寺大圓寺招き岩村遠山氏は再び勢い取り戻した。しかし苗木遠山氏については依然木曽氏傘下に留まっていた。 天文7年1538年)、岩村遠山氏遠山景前思われるが、大井町武並神社梵鐘寄進する。その銘には「濃州恵那郡遠山荘大井正家武並大明神之鐘 天文七年戊戌七月十二日鋳之」とあった。(厳邑府誌)。 天文11年1542年)には遠山景安が笠木社に梵鐘寄進する。その銘には「濃州賀茂郡笠木為新寄進本願(中略)天文十一寅壬年十一月二十日遠山左衛門尉藤原景安」とある。(苗木遠山家譜)。苗木遠山氏苗木勢力保っていたことがわかる。 天文11年1542年)の秋、守護代斎藤道三が叛いて突如大桑城居た守護土岐頼芸攻めた時に遠山景正の子岩村城主の遠山正景が土岐頼芸仕えていたため防戦した。(遠山家譜) 天文14年1545年)『木曽考』によると、木曽義康の兵が中津川防衛のため上兼(中津川上金)との途中茶屋坂で戦い、義康の家臣萩原主水本名遠山)が安田七郎討ち取っているため、当時苗木遠山氏木曽氏傘下にあった考えられる

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