松尾嘉右衛門について
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「鶴見騒擾事件」の記事における「松尾嘉右衛門について」の解説
詳細は「松尾嘉右ヱ門」を参照 松尾嘉右衛門はこの事件を契機として、中野喜三郎の引き立てもあり神奈川県の土木建築業界に君臨していく。多額納税者として貴族院議員(1946年 - 1947年)にも就任。松尾工務店、花月園観光社長として花月園競輪場の創始にも関わっている。建設業界への長年の功績により勲四等旭日章を受勲した。反面、県の公共事業に王制を敷いていた河野一郎と喧嘩をするなど、1965年に74歳で没するまで波乱の生涯を送る。流れ者として京浜に着いて旭硝子の工員から出発した松尾の成功物語は、京浜の隆盛を物語る神話といってもよい。 松尾は清水組との縁も深め、下請けでも特に選ばれた「名義人」になっている。この頃の青山組の頭領は鶴見の喧嘩で前線に立ち、その責任を果たした男であった。青山の看板を継承すると、清水組の名義人となり周囲からも器量人と見られていた存在であるが、この松尾の件を聞くと清水組の内山工場長をたずね「松尾さんは稼業に汗を流せる人間じゃないから名義から下ろしてください」と直言したが内山に宥められる。
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