松尾小笠原氏と木曽氏の恵那郡侵攻
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「遠山景前」の記事における「松尾小笠原氏と木曽氏の恵那郡侵攻」の解説
応仁元年(1467年)応仁の乱が勃発すると美濃守護の土岐成頼は西軍について8,000余騎を率いて京に在陣して戦った。文明5年(1473年)留守を守っていた守護代の斎藤妙椿が伊勢に遠征している隙に、東軍の信濃松尾城 (信濃国伊那郡)城主の小笠原家長は、将軍足利義政の命により、子の小笠原定基や木曾家豊(木曾義元の父)と共に、美濃恵那郡の大井城や土岐郡の釜戸村にあった荻島城を攻め落とし、その後、恵那郡の中部と土岐郡の一部は松尾小笠原氏の駐留が続いた。苗木遠山氏は木曽氏の傘下にあった。その当時の岩村遠山氏は、頼景の子が景友(季友)、景友の子が景前(かげまえ)である。景前の頃には美濃守護の土岐氏や守護代の斎藤氏は凋落しており、東美濃では国衆の遠山七頭が諸城を築いて郡外勢力を拒みつつも周辺諸国の豪族との安定した関係を模索しなくてはならない困難な状況となっていた。岩村遠山氏の当主である景前は惣領格ではあったが、遠山七頭は連携しつつも各々が独自に領地を治めている状況であった。
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