木曾家豊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/16 13:30 UTC 版)
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| 時代 | 室町時代 |
| 生誕 | 不詳 |
| 死没 | 不詳 |
| 別名 | 兵部少輔 |
| 幕府 | 室町幕府 |
| 主君 | 足利義政 |
| 氏族 | 木曾氏 |
| 父母 | 木曾家賢 |
| 兄弟 | 家豐、家範、家益、家盛 |
| 子 | 義元、黒川義勝 |
木曾 家豐(きそ いえとよ、生没年不詳)は、室町時代の武将。美濃国小木曾荘の領主で木曾氏の当主。木曾家賢の子。子に義元がいる。
経歴
文正元年(1466年)、菩提寺の興禅寺に梵鐘を寄進している。鐘銘は以下のとおりであった。
壇心離有作々 金匠到無切功 鐘聲廣大 伽藍興隆 群生睡破 利濟無窮 美濃州 慧那郡 木曾庄 萬松山 興禅々寺 住持比丘大壇那 源之朝臣家豐 于時文正元年 丙戌霜月一日
応仁元年(1467年)からの応仁の乱では足利義政からの要請で東軍側に付いた。
文明5年(1473年)、家豊は将軍足利義政の命を受けて[1]、小笠原家長と共に東濃攻略のため、恵那郡の大井城、土岐郡の釜戸村にあった荻之島城(刈安城)を攻め落とした[2]。
その後、木曾氏は天文24年(1555年)甲斐の武田氏の麾下に降るまでの期間、美濃国恵那郡北部の苗木遠山氏を統制下においた。
参考文献
- 『木曽福島町史 上巻』 第二章 上代より平安朝末迄 第十八節 木曾家豊 P92~P98 木曽福島町史編纂委員会 1954年
脚注
- 木曽家豊のページへのリンク